水戸は御三家と習ったものですが、
江戸幕府設立当初御三家と言う考えはなく、
当時徳川の分家が、絶えたり将軍職を継いだりして他の家がなくなったので、たまたま御三家と言われただけです。
水戸光圀は「大日本史」を編纂させ、これが200年後に幕府転覆の精神的支柱になります。
世界観は天皇中心の世。
国学を代々学んだ水戸徳川家に、朝廷に逆らう道理はありません。
当然幕府からは遠ざけられます。
江戸時代、水戸藩から将軍は出ていません。
慶喜は継いだ一橋家当主としての将軍です。
御三卿とはいえ名ばかりで、部屋住みのスペアです。
藩もなく、兵もなく、財もなく、家臣団すらありません。
江戸時代の家格は石高ではありません。
朝廷からの官位です。
薩摩は石高・所領は多くても、官位は下です。
しかし、財力は相当です。
これが討幕の資金源です。
慶喜の官位ははるかに上でも、何の力もありません。
将軍になっても自前の軍隊はありません。
編成したのは駆り集めた農民サムライです。
身分の低い庶民を武士に登用して急ごしらえです。
一応味方の大名たちはいます。
尾張藩主慶勝、会津藩主容保、桑名藩主定敬、そして一橋家茂栄。
しかし、実はこれらはみな兄弟です。
それらのおじいさん義和は水戸家からの養子です。
所詮頼れるのは身内だけ。
さぞ遠方同士で連絡も難しいと考えますが、
当時みな住んでいたのは江戸です。
幕府時代3世、4世以下みな江戸っ子です。
嫁いでも養子に行っても、江戸町内に行くだけです。
将軍職を継いだ慶喜ですが、居城は大阪城、出張先は京都二条城です。
江戸城はすでに薩摩から来た篤姫が牛耳っています。
将軍のご意見番、次期将軍を意見できるのは御台所です。
実権を握るのは常に女性です。
江戸城に入れない慶喜の政治の舞台、幕末は近畿が中心です。
天下の将軍。
とはいえ、慶喜の弱さはすでに周知の事実です。
薩摩は260年の時を超えて、天下を取ります。
15代将軍徳川慶喜
中学校歴史教科書より