予備校の費用は当時の東北学院の1年間の授業料よりもはるかに多い金額でした。

生活費はわずかしか使えません。

画材代もかかります。

父がアパートの家賃だけは出すと言ってくれました。

当時コレクトコールというNTTのサービスがあり、

指定の番号で通知すると相手方の料金負担で話せます。

が、母は受付拒否でした。

まぁ経済封鎖でしょうか。

しかし、出エジプト記ではモーゼの叫びで海が裂け、道が開けます。

飢えた民が願うと天からパンが降ってきます。

私は近くの神社に合格祈願しました。

お諏訪様でしたが。

その頃コンビニが地方都市でも増え始めました。

仙台の西公園前にサンチェーンがあり、おいしいお弁当が売っていました。

その頃のコンビニは10円高いというのが常識でした。

夜間営業の電気代とお客も納得済みです。

その高価なコンビニ弁当がたまのごちそうで、

一度に食べきるにはもの惜しく、

おかずを別にして2回に分けて食べました。

苦しい月はさらに3回に分けます。

さらに苦しい月は、

味の付いたご飯をおかずに別に炊いたご飯を食べます。

同じお米でも味が違うと一品のおかずになるものですね。

仙台駅前に「仙台アメ横」があり、

当時100円でサンマ5匹、サバは3匹、

たまごもキャベツも100円でザルひと盛買えました。

仙台アメ横はいつも人でごった返していました。

広瀬川に架かる仙山線の鉄橋。

赤いレンガづくりの橋脚でした。現在は鋼鉄製のカバーで覆われています。