去る5月29日の記事「県知事選結果と躑躅の絨毯」で紹介しました花は、花の開花時期から見て躑躅ではなく「皐月」のようです(これも確証なし)。施設の職員に聞いても分かりませんでした。後日、手入れをしている庭師の方を見かけたら確かめておきます。 

 

   さて、今回は古札ではありませんが、寛永通宝四文銭の「下田極印銭」を紹介します。

 嘉永7年(1854)、ペリー提督率いるアメリカ軍艦9隻が日本に開港を求めて再来航(第1回来航は前年)し、日米和親条約が締結され下田、函館2港が開港されました。そして2年後の安政3年(1856)アメリカ領事ハリスが下田に領事館を開設します。

 下田は江戸時代、風待ち及び避難港として栄えていましたが、通好の場となりさらに発展しました。その後、領事館は閉館となりましたが明治維新となってもその賑わいは変わりませんでした。

   

 明治4年(1871)、明治政府は円・銭・厘の新貨幣制度を制定、これまで使用されていた寛永通寶一文銭は1厘、四文銭は2厘と定めましたが、これに不満を持った下田町民が町会所に押しかけ抗議をするなど町は騒然となりました。この事態を重く見た町役人達は緊急協議を行い、騒動を鎮めるため下田管内の良質な四文銭を会所に提出させ、その銭貨の輪上に下田の「下」、輪下に「タ」字の極印を打ち、極印のあるものは下田管内に限り従来通り4厘(4文)とし、刻印のないものは定めの通り2厘とする条件で通用させました。しかし新政府の銭貨が通用し始めると直ちに引き上げたため、本銭の現存数はそれほど多くはありません。

 

 写真は「下田極印明和俯永銭」と呼ばれるものです。径28.05㎝

  

 

※ 寛永通宝四文銭には21波(小波)と11波(大波)の2種があります。また字体の変化により何種類にも分類されています。

※ ちなみに、嘉永7年11月4日、ロシア軍艦のディアナ号が下田港停泊中に安政東海地震(津波)によって大破損、その後、修理のため曳航途中に強風により駿河湾内で沈没してしましました。この時、日露和親条約が結ばれました。