あと2週間程で年が変わるというのに、ここ数日とても暖かいです。私の記憶では昭和の終わり63年・64年の正月も暖かく暖房が入った室内とはいえ、下着一枚で過ごした記憶があります。温度の変化は調べておりませんが、この頃から気温が急激に上がり出した感じがします。 

 

 写真は灰釉抹茶碗です。賤機焼ではありませんが、明治後期から昭和初年に至るまで静岡市の賤機焼窯元の下で働いていた浅本鶴山という陶工が昭和10年に富士宮市の浅間神社本宮付近に窯を築いて焼いた抹茶碗です。

 茶碗側面には濃い茶色(鉄釉)と灰色の釉薬(灰釉)が片身替わりのように掛けられています。高台畳付けは割り高台で賤機燒の素地ではありません。多分、富士宮市近郊の土を用いて焼いたものと思われます。

 口径13.7㎝×高7.4㎝×高台径5.0㎝

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 写真②の蓋表「抹茶碗一」、3の蓋裏「昭和乙亥 朧月 於富士大宮 鶴山人乍  印」と作者の箱書きがされています。

 

※ 浅本鶴山の経歴

  明治18年12月、岡山県津山市に寺井作蔵の4男として生まれる。本名陶市、元肥前国大村藩工であった曾祖父の円之助が、文化2年(1805)、松江藩主に招かれ出雲において楽山窯を起こす。その後、祖父国蔵が津山の藩侯茶寮で茶器を焼く。陶市は3歳で陶芸家浅本房吉の養子となる。

 18歳(明治35年)で修行のため全国の窯場(淡路珉平燒、出石、伊部、明石朝霧燒、稲見、京都陶器試験場等)を渡り歩く。明治44年(1911)静岡の賤機焼窯場に来て青島庄助(樵山 再興賤機焼初代)・秀山親子を手伝う。鶴山は、賤機焼を手伝いながら焼津の元小泉八雲邸や清水鉄舟寺等にも窯を築き焼物を焼いたという。

 昭和10年(1935)頃までの約20年余(27歳~45歳)静岡において作陶、その後。故郷の津山市に帰ったといわれる。津山では、南蛮焼や楽焼風の賤機焼に似た焼物を焼いている。

 浅本鶴山については、平成5年、津山市郷土博物館において「平成5年度特別展  浅本鶴山の陶芸」展が開催されている。前記、年譜は同展図録に記載されていた鶴山日記・年譜から抜粋した。