下の写真をご覧ください。今回の題名はQuestion(?)です。さて、「この素焼の容器、何か分かりますでしょうか?」

 「弥生土器」と答えた方はかなり考古学に造詣が深い方です。しかし、残念ですが弥生土器ではありません。弥生土器は土にもう少し赤みがあると思います。

    

  口径5.6㎝×高8.5㎝×高台径5.6㎝            口径5.1㎝×高9.0㎝×高台径6.5㎝

 

 実は、この素焼の容器は金を溶解する「坩堝(るつぼ)」です。

 徳川家康公が駿府城に隠居していた時代に小判を鋳造した後藤庄三郎光次屋敷跡から発掘されたものです。屋敷内で慶長駿河小判や一分金などが作られていたので、後藤屋敷を「駿河小判座」といいました。

 後藤庄三郎の屋敷跡は、現在の日本銀行静岡支店(現金座町)とその裏側一帯で「金座稲荷神社」(後藤屋敷内にあった稲荷神社)が鎮座している場所です。当時は上魚町(カキウオチョウ、通称カミンダナ)と呼ばれており、2,932坪の広さがありました。屋敷内には松の巨木があり、駿河湾から見えたといいます。 

 金の吹立(精錬)に使用したと思われる坩堝2個は、昭和7年(1932)、静岡市内に初めて水道が引かれた時、水道管の埋設工事で旧木村薬局前(今は更地)を60~80㎝ほど掘削した際に出土したもので、当時100個ほどが出土しましたが、完全な形の物はほとんどなかったといいます。この時、工事に携われた方の子孫から人を介して譲って頂きました。

 また、静岡市内には昭和4年(1929)から約35年間ほど、静岡駅前から茶町通りを経由して安西(現厚生病院前)まで路面電車が走っていました。昭和37年(1962)廃線による線路の撤去工事や日本銀行静岡支店建設(昭和47年)の際にも、工事現場から坩堝が出土し話題になりましたが、ブルトーザーが使用されていたためほとんどが破損していたといわれます。

                         

 ※ 3枚目写真の右上が駿府城、真ん中が安西寺、安西寺の下側が小判座(後藤庄三郎屋敷)です。赤鳥居は金座稲荷です。

 

 徳川家康公は、慶長10年(1605)、将軍職を嫡男・秀忠に譲り、同12年(1607)、駿府城に移り大御所政治を行いましたが、元和2年(1616)死去しました。駿河小判座は慶長12年から同17年(1612)までのわずか5年間だけ開設され、その後、江戸金座に統合されました。

 ちなみに、銀座は両替町、銭座(古寛永沓谷銭鋳造地)は沓谷村(現銭座町)にありました。

 後藤屋敷内にあった金座稲荷社は何度かの移転を繰り返し現在の地に遷座されていますが、写真正面のお社のうしろ、一段高い石垣の上に本来の小さな祠が祀られています。