残暑が厳しいですね。未だ35度以上の猛暑日を記録する地域が何か所もあります。静岡市内でも一昨日、今年の真夏日が71回を記録しました。古来「暑さ寒さも彼岸まで」といわれます。もう少しの辛抱だと思うのですが、秋雨前線の南下が遅れています。

 

 旗本井伊谷近藤氏(5450石)の米切手です。写真①は安政3年(1856)米25俵  井伊谷村、写真③は嘉永5年(1852)米50俵 奥山村の発行です。両村は現在の浜松市北区引佐町内です。

 いずれも県内の米切手としては大変珍しい版木摺りの米切手で、村名、年号、買主、蔵役人(庄屋等)の名前のみが墨書きされています。文言は「右之通相払候間  買人断次第  此手形引替 定迄付送相渡者也」となっています。この他、祝田村、神宮寺村などの米切手が確認されています。

表  ②裏  ③

  32.5㎝×14.5㎝         井伊谷村裏             33.4㎝×14.4㎝

 

 旗本近藤氏は、南北朝の時代から井伊谷を支配していた井伊家(のち彦根藩主)に被官し、近藤康用(東三河宇利城主)は鈴木重時、菅沼忠久とともに井伊谷3人衆として徳川家康の遠江侵攻や関ヶ原の戦で功を立てました。康用の子秀用は、豊臣秀吉の小田原城攻めでは敵方大将の首級をあげ、秀吉から軍功抜群として賞詞や馬を下賜されています。その後、家康の命で井伊直政の与力となりましたが直政と反りが合わず井伊家を出奔、家康の旗本となることを望んだものの直政の妨害で浪人となりました。直政の死後、徳川秀忠に5千石の旗本として再び召し出され、元和元年(1615)には井伊谷に1万7千石を賜って井伊谷藩を立藩しましたが、まもなく所領を一族(子・孫)5人に相次いで分知してしまいました。これを「旗本5近藤」といいます。

 秀用は井伊谷藩立藩に際して陣屋を井伊谷城三の丸跡に定め館を建築し、これを4男用義が引き継ぎ「井伊谷近藤氏」が創始されました。

 

※ 井伊谷5近藤は、井伊谷近藤(5450石 4男 用義の子用将)、気賀近藤(3900石 2男・用可)、金指近藤(5450石 長

男・季用の子貞用)、大谷近藤(3000石 用可の子用行)、花平近藤(800石 秀用の弟用伊の子用忠)をいいます。