遠江国横須賀藩(西尾家 3万五千石)領 各和村(元掛川市)において、安政2年(1855)に発行された蔵米切手です。

 米切手は厚手の用紙(泉貨紙)で風格があり、写真では分かりにくいですが、表面には紙漉きの際に版木を押し当てて板目文様の凹凸を印刷した偽造防止策が講じられています。

 文面の内容は「米弐拾五俵也 右は当卯年貢米の内 この手形を以て滞り無く付き払い相渡す可く候 如件」となっております。

    縱16.3㎝×横23.4㎝

 

 横須賀藩は、天和2年(1682)、西尾忠成が信濃国小諸(2万石)から5千石の加増を受けて入封、明治元年、徳川家の駿府藩(徳川家)立藩に伴って安房国花房に移封されるまでの8代・186年間を所領しました。

 忠成の子・忠尚は、寺社奉行、若年寄、西丸老中、老中という幕府要職を歴任し、その功によって2度にわたって各5千石の加増を受け石高3万5千石となりました。幕末期の藩主隠岐守忠篤の時代、藩領は城東・佐野・山名・周知4郡72か村(実石4万520石)となっていました。

 各和村は袋井市との市境、原野谷川中流域に位置し、中世在地領主各和氏の居城があった地であり、村高1,174石の大村で、旗本窪田氏(石高700石)との相給村でした。