色絵古九谷の金銀彩方形小皿です。手塩皿と言うべきかも知れません。

   染付で山水や帆船を描き、そこに赤色を主体として色絵と金銀彩で家屋や樹木、雲などを描き込んでいます。色絵の描き方は非常に稚拙ですが、それが却って素朴感を醸し出してもいます。

 裏側面は梅切り枝文を四方に置き、高台内には「芭蕉」の陶銘が書き込まれています。口縁に数カ所金直しがされていますが、

小振りながら存在感ある作品であります。

  

 辺径8.7㎝×高2.0㎝

 

 金銀彩作品については、初代柿右衞門といわれる喜三右衛門の文書「覚」に「金銀焼付候儀某付初申候 諸人珍敷由申候 丹州様御入部の節 納富九郎兵衛殿御取次を以 錦手富士山之鉢 ちょく相副献上仕候(後略)」とあり、金銀彩を初めて開発し献上したことが判明しております。丹州様とは佐賀藩2代藩主光茂公であり、お国元への初入部(帰国)が明暦4年(1658)ということですから、初代柿右衞門が金銀彩を造ったのは献上年の明暦4年の少し前と考えられております。

 なお、「芭蕉」銘の小皿類陶片は、柿右衞門初期の窯である年木山の楠木谷1号窯跡の物原最下層に近い層から集中的に出土しており、上手作品で有名な「承応弐歳」銘のものよりも下層ということですので、承応2年(1653)よりも早い正保・慶安期頃(1644~52)の作品と考えられています。

 上述のように初代柿右衞門の活躍した時代は古九谷様式の時代であり柿右衞門様式の時代ではありません。柿右衞門様式が始まるのは3代・4代の晩年からでありますので、巷で良く言われる「初代柿右衞門作の柿右衞門様式の皿」というのは存在しません。 

※ 物原とは、登り窯(窯跡)の近くにあって、焼き損ないの製品を捨てる場所のこと。そこは長い年月を経て焼物の地層ができ

 ているので、積み重ねられた陶片の歴史と伝統技術を今に伝えてくれます。