長編小説を読めない主催者 | 信州読書会

信州読書会

長野市で読書会を行っています

 私は、今、何かを書こうとしている。その何か、は目をつむっているときには様々な連想とともに、つぎつぎと生まれてくるのであるが、さて、あらためて文字に起こそうとすると、消えてしまうか、もしくは色あせてしまうものだ。

 

 物語を書こうとする。すると私の想像したことを書くのが手っ取り早い。その物語は、読んでくれる人の興味を引くものであるかは、気にかかるところだ。伝わるように、理解してもらえるように、共感してもらえるように、笑ってもらえるように、書きたい。

 

 笑ってもらえるように。笑ってもらえる。これは大きな価値だ。自分が書いていて笑ってしまうものを、読者が、大声を出して笑ってくれれば、こんなに嬉しいことはない。

 

 最近、想像して、ひとりで大笑いしたのはこんなことだ。

 

 例えば、架空の話だが、エベレストの単独登頂の挑戦の模様を、ネットで生配信する登山家がいる。彼は、毎回惜しいところで、ギブアップして、自撮りしているカメラの前で泣き叫ぶのである。その様子が、ネットで配信されるのが恒例になっている。(実際それに似たような登山家はいたが)

 

 ある若者がいる。彼は読書会を主催している。読書会に主催するのだが、主催者が課題図書である長編小説を、当日までに読みきれない。主催者としては失格である。

 

 読書会の冒頭「今回も読みきれませんでした」と謝りながら、みんなの前で、子供のように泣くのである。悔し泣きである。読みきれなかった理由は語らない。ただ、彼は、大いに、泣くのである。大人げないくらい、おいおいおいおい、泣きわめく。

 

 参加者のみんなは、もちろん課題図書を読んできている。だけど主催者の彼だけは、まるでカフカの『城』の測量技師が城にたどり着けないように、毎回、課題図書を、読みきれないのである。

 

 だったら、短編小説を課題図書にすればいいのに、わざわざ文庫で5冊もあるような『レ・ミゼラブル』とかパール・バックの『大地』とか、そんなような長編小説を、課題図書に選ぶのだ。それは彼の自尊心のなせる技だ。

 

 私もその読書会の参加者である。そして、この主催者が、毎回、読みきれず泣き出すのを、必死に笑いをこらえながら、眺めている。主催者は、ひとしきり泣いたあと、読書会がはじまると、うつむいたまま、神妙に黙っている。

 

 読了した参加者だけで、気まずい雰囲気の中、読書会が粛々と行われる。もちろん、主催者の彼は、未読なので、読書会を仕切る資格がない。だから、皆、思い出したように、ぼつぼつとしゃべって、読書会は、全然盛り上がらないのである。いや、盛り上がると、未読の主催者が可哀想なので、あえて遠慮して、参加者は、盛り上がらないようにしている。

 

 こんなことが、この読書会の、恒例なのである。

 

 参加者は、みな主催者が、毎回冒頭で「今回もすみません」と謝りながら、次第に激高して、涙と鼻汁を垂らしながら、泣いている様子に、呆れている。ああまたはじまったか。しかしながら、彼が、冒頭、机に突っ伏して泣き呻きながら、みんなの前で悔しがってくれないと、読書会がはじまらないし、締まらないのである。

 

 参加者は、この主催者が、長編小説を読み切る力がないことは薄々知っている。帰りがけに、そのことが、話題になり、主催者が去ったあと、会場の前で立ち話していたら1時間あっという間に過ぎていたことも、何度もある。

 

 私が悪乗りして、泣いている様子をモノマネする。みんな、吹き出して笑うのである。心優しいある参加者に、私は意地が悪いと、たしなめられる。私も反省する。

 

 なんで短編小説でやらないんだろうねえ、とみなは、口々に言うのである。でも、長編を読みきれなくて、大泣きする主催者の様子が、この読書会の参加者に不思議な結束力を与えているのだ。毎回10人近くが参加する。読書会だけの付き合いだが、長続きしている。

 

 主催者は、もしかしたら前世は、経典をおぼえられずに、大泣きする聖(ひじり)のような人物なのかもしれない。何かの仏教説話に、こんなお坊さんがいたとか、いやいや、やはり法華経のどこかにそんな菩薩がいたとか、いや、キリスト教の聖者列伝にあったエピソードかもしれないとか。

 

 だが、実際、そんな聖が、いてもいなくても、どっちでもいい。課題図書は、1年先まで決まっている。すべて長編小説だ。あと、何回、この主催者は、みんなの前で泣くのだろう。でもなんで他の参加者は、こんな主催者の読書会に熱心に参加するのだろう。私も。

 

                                 (おわり)