hiroチャンのブログ -556ページ目

ガラス越しの恋・・・。



恋はせども想いは伝わらず・・・。




このガラスさえ無ければ・・・。










食べちゃいたいくらいpretty











縞馬さん、アナタに惚れましたぁ











(;σ`O´)σ おい!ペンギン

お尻を向けるとは失礼なぁ!

皆の衆 (;σ`O´)σ 此奴は
無礼千万なペンギンざます!











君は子熊か?
なぜそちらの世界にいる?










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Lone Wolf


【セオドア・ジョン・カジンスキー】
Theodore John Kaczynski


生誕:1942年5月22日
アメリカ合衆国、イリノイ州エバーグリーンパーク

没年:2023年6月10日(81歳没) 

別名:ユナボマー
職業:数学者
罪名:爆弾の運搬、郵送及び使用、殺人
刑罰:仮釈放なしの8回分の終身刑
有罪判決:殺人罪

1978年~95年に連続郵便小包爆弾事件を起こした「ユナボマー(Unabomber)」ことテッド・カジンスキー(Ted Kaczynski)受刑者が2023年6月10日、収容されていたノースカロライナ州の医療刑務所で死亡した。反応がなかったため病院に搬送され、死亡が確認された。81歳だった。


セオドア・ジョン・カジンスキーはアメリカの数学者、犯罪者。「テッド・カジンスキー」「ユナボマー」などとも呼ばれる。

1978年5月から1995年にかけて全米各地の大学と航空業界および金融関係者に爆発物を送りつけ、3人が死亡、29人以上が重軽傷を負った事件を起こし、「ユナボマー(Unabomber、University and Airline Bomberを短縮した造語)」の名で呼ばれる。のちにカジンスキーから『ニューヨーク・タイムズ』と『ワシントン・ポスト』に送られた犯行声明「Industrial Society and Its Future」(「産業社会とその未来」、通称「ユナボマー・マニフェスト」)により、これら一連の事件の目的が明らかとなる。FBIによる捜査では史上最長となった事件である。

カジンスキーは1942年、シカゴ郊外のイリノイ州エバーグリーンパーク にポーランド系の2世移民として生まれる。 父親はソーセージ工場の労働者であった。少年期はセオドアの愛称であるテッド、またはテディという愛称で呼ばれ、内向的ではあるが、高い知能を持つ勉強好きな少年で小学校5年でのIQが167もあった。子供の頃の彼は、他人の感情を理解できず、友達と遊ぶような子ではなかった。飛び級をしたが、いじめの対象になっていた。

学業は天才的な優秀さで、地元で知らぬ者はいないといわれた。15歳の時には、上級数学コースを高校で受講しており、ラプラス変換などを勉強していた。飛び級により、16歳でハーバード大学に進学した。大学時代、CIAの前身機関でスパイ養成を行っていた心理学者・ヘンリー・マリー教授による行動心理実験の被験者となり、この時受けた心理的拷問体験や、隔離入院の経験が、後の犯行心理の奥底にあるといわれる。ハーバード大に飛び級で入学した割りには最後の年の成績は良くなかった。そのためシカゴ大学、カリフォルニア大学バークレー校、ミシガン大学の大学院には合格したが、最終的にはミシガン大学の大学院でティーチングアシスタントのポジションが得られたので、ミシガン大学の大学院に入学することにした。

ミシガン大学で数学の修士号とPh.Dを取得。1967年に、25歳でカリフォルニア大学バークレー校の助教に就任した。カリフォルニア大学バークレー校では学部生に、位相幾何学や関数空間を教えていた。

彼に対する専門性の評価は高く、大学の教員であり続けることのみならず、教授への昇進も期待されたほどだったという。しかし、教えたコースの学生からの評価は良くなく、多くのクレームがあった。

1969年に大学を辞職して実家に戻り、2年後にはモンタナ州の郊外に自らの手で山小屋を作り、電気も水道も通っていない環境で自給自足の生活を始める(ただし家族からの経済的援助を受けたり、雇われ仕事をすることはあった)。

1978年5月28日にノースウェスタン大学の材料工学科教授に小包爆弾を送りつけたのが最初の犯行であり、警察官が負傷する。

1979年5月9日には再びノースウエスタン大学に爆弾を送り付け、大学院生が負傷する。

同年11月25日にはシカゴからワシントンDCへ向かうアメリカン航空444便の爆破テロを企図した。未遂に終わったものの、12人の乗客が爆弾から噴き出た煙を吸い込んで病院に搬送される事態となり、FBIが連邦犯罪としてユナボマーの捜査を行う最初の事件となった。

1980年6月10日にはユナイテッド航空の社長に対し、書籍に偽装した爆弾を自宅に送り付け負傷させる。

1981年10月8日にはユタ大学に爆弾を送り付けるが警察により解体され未遂に終わる。

1982年5月5日にはヴァンダービルト大学に爆弾を送り付け、事務員の女性が負傷する。

同年7月2日にはカリフォルニア大学バークレー校に爆弾を送り付け、電子工学科教授が負傷する。

1985年5月15日にはカリフォルニア大学バークレー校に再び爆弾を送り付け、電子工学科の大学院生が右手の指4本を失うなどの重傷を負う。

同年6月13日にはボーイング社のオーバーン (ワシントン州)の製造部門に爆弾が送り付けられるが、爆弾処理班により解体され未遂に終わる。

同年11月15日にはミシガン大学の心理学教授マコーネルに爆弾が送り付けられ、2人が負傷する。

同年12月11日にはカリフォルニア州サクラメントのパソコン店経営者を爆殺し、初めての死者が出る。

1987年2月20にはソルトレークシティーのコンピュータ店経営者を負傷させる。その際に初めて目撃され、似顔絵が全米に周知されたが1988年から1992年までは全く犯行を行わず、爆弾製造技術を磨いていた。


指名手配されたニャー?


1993年6月に犯行を再開し、22日にはカリフォルニア大学の遺伝学者、24日にははイェール大学のコンピューターサイエンス学科教授に爆弾を送りつけそれぞれ重傷を負わせる。

1994年12月10日にはバーソン・マーステラ社の重役、1995年4月24日には木材業界のロビイスト団体代表をそれぞれ爆殺する。

1995年、犯行声明文(産業社会とその未来)、いわゆる「ユナボマー・マニフェスト」を全国紙に載せることを条件に犯行を中止する。 ニューヨーク・タイムズとワシントンポストが掲載し、全米の反響を呼ぶ。しかしこの行為が仇となり、論調や使用語句が自分の兄に似ていると感じた実弟がFBIに通報、2,000人を越える容疑者リストの1人となった。

当初、モンタナ州の山奥の電気もガスもない山小屋において年収1,000ドルで暮らす人間をマークする捜査員は僅かであった。しかし、ハーバード卒業時の論文の論調とマニフェストが酷似していることで捜査が進められ、翌年、100人の捜査員、米軍兵士に包囲され逮捕された。 




裁判では、弁護団を自ら解任し自己弁護を行おうとする態度などで審理が進まないと判断した検察官は、仮釈放なしの8回分の終身刑とする司法取引を提案した。そしてこの司法取引にカジンスキーが同意したためそのまま刑は確定となり、公判は一度も開かれなかった。そのため、カジンスキーの犯行動機は現在も不明である。また、攻撃の標的をどのように定めたかも多くは語られず不明である。 コロラド州にあるフローレンス刑務所で服役していた。


FBIはこの事件で犯罪人類型に「Lone Wolf」型を加えた。

カジンスキーは逮捕後は一連の犯行を「個人的な復讐」と語っている。
爆弾テロという行為に訴えた根本的な理由、本当の動機は、寡黙で社交性がなく惨めな生活を送っている自身の境遇の責任を社会に転嫁したかっただけであるという見解もある。

2021年12月下旬に収容先のADXフローレンス刑務所からノースカロライナ州のバットナー連邦医療刑務所に移送されたことが明らかになったが理由は不明。

2023年6月10日早朝に刑務所内で死亡しているのが発見された。81歳没。自殺とみられると報じられている。また当時カジンスキーは末期がんであった。



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コナンくんの誕生日

コナンくんの誕生日


とは言うものの、こっちのコナンですけど・・・。

【アーサー・コナン・ドイル】
Arthur Conan Doyle



誕生:1859年5月22日
イギリス・スコットランド・エディンバラ
死没:1930年7月7日(満71歳没)
イギリス・イングランド・クロウバラ
職業:作家、医師、政治運動家
国籍:イギリス
最終学歴:エディンバラ大学医学部
代表作:シャーロック・ホームズシリーズ
チャレンジャー教授シリーズ
ジェラール准将シリーズ
『ホワイト・カンパニー』(1891年)
主な受賞歴:ナイト(1902年)



『シャーロック・ホームズ』シリーズの著者として知られ、現代のミステリ作品の基礎を築いた。SF分野では『失われた世界』、『毒ガス帯』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『ホワイト・カンパニー』やジェラール准将シリーズなどを著している。



1902年にナイトに叙せられ、「サー」の称号を得た。

1859年5月22日にスコットランド・エディンバラに測量技師補チャールズ・ドイルの息子として生まれた。アイルランド系・カトリックの家庭だった。大伯父から「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」の複合姓となる。祖父や伯父3人は成功者だったが、父は出世せず、後にはアルコール中毒者となって精神病院に送られたため、幼少期・青年期の生活は苦しかった。伯父たちの支援でイエズス会系の学校を出た後、1876年にエジンバラ大学医学部に進学し、1881年に学位を得て卒業した。大学卒業後、医師として診察所を開業したが、大きな成功は得られなかった。
患者を待つ暇な時間を利用し、副業で小説を執筆して雑誌社に投稿するようになり、1884年にはシャーロック・ホームズシリーズの第一作である長編小説『緋色の研究』を発表している。
1889年に出版された歴史小説『マイカ・クラーク』、1890年に出版されたホームズシリーズ第2作『四つの署名』、1891年に出版された歴史小説『ホワイト・カンパニー』などで小説家として成功した。

1891年にはこれまでの診察所を閉めて、無資格の眼科医を始めたものの、患者は全く来なかった。これをきっかけに執筆業一本に絞ることになった。

1891年から『ストランド・マガジン』で読み切りのホームズ短編小説の連載を始め、爆発的な人気を獲得した。しかし彼は歴史小説を自分の本分と考えていたのでホームズシリーズが著名になり過ぎると、ホームズを倦厭するようになり、1893年発表の『最後の事件』においてホームズを死亡させた。その後、ナポレオン戦争時代を舞台にしたジェラール准将シリーズの連載を開始した。

1900年にボーア戦争が勃発すると医療奉仕団に医師の一人として参加して戦地に赴いた。同年10月に行われた解散総選挙に与党自由統一党の候補としてエディンバラ・セントラル選挙区から出馬し、戦争支持を訴えたが、落選した。

ボーア戦争がゲリラ戦争と化して焦土作戦や強制収容所などイギリス軍の残虐行為への国内外の批判が高まっていく中、1902年には『南アフリカ戦争 原因と行い』を発表して、イギリス軍の汚名を雪ぐことに尽力し、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙され、「サー」の称号を得た。

1901年には久々のホームズ作品である長編小説『バスカヴィル家の犬』を発表した。この作品の事件の発生年は『最後の事件』より以前に設定され、死亡したと設定されたホームズの復活ではなかったが、1903年から再開されたホームズ短編連載ではホームズは生きていたと設定された。

彼は「自分にはホームズのような推理力はない」と語っていたが、「ジョージ・エダルジ事件」や「オスカー・スレイター事件」といった事件で、警察の杜撰な捜査を暴いて、犯人とされた人物の冤罪を晴らすことに尽力した。

1912年4月のタイタニック号沈没事件をめぐっては乗客・船員の英雄譚の実否をめぐって否定的なジョージ・バーナード・ショウと論争した。

1912年にはチャレンジャー教授シリーズの第1作である『失われた世界』、その翌年には第2作『毒ガス帯』を発表し、SF小説にも進出した。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると政府や軍部の戦争遂行を全力で支援した。戦意高揚のための執筆活動や、各前線をまわって士気を鼓舞する演説を行うことに努めた。
一次大戦前から心霊主義に関心を持っていたが、戦中の相次ぐ身内の戦死・病死により、戦後には心霊主義への傾斜を一層強めた。晩年の活動はほぼすべて心霊主義活動に捧げられた。1925年にはチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める『霧の国』を発表した。

1930年7月7日に死去した。

《主な作品》
シャーロック・ホームズシリーズ
『緋色の研究』(1888年)
『四つの署名』(1890年)
『シャーロック・ホームズの冒険』(1892年、短編集)
『シャーロック・ホームズの思い出』(1894年、短編集)
『バスカヴィル家の犬』(1902年)
『シャーロック・ホームズの帰還』(1905年、短編集)
『恐怖の谷』(1915年)
『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』(1917年、短編集)
『シャーロック・ホームズの事件簿』(1927年、短編集)
チャレンジャー教授シリーズ
『失われた世界』(1912年)
『毒ガス帯』(1913年)
『霧の国』(1926年)
ジェラール准将シリーズ
『ジェラール准将の功績(The Exploits of Brigadier Gerard)』(1896年、短編集)
『ジェラールの冒険(The Adventures of Gerard)』(1903年、短編集)
歴史小説
『マイカ・クラーク』(1889年)
『ホワイト・カンパニー』(1891年)
『大いなる影』(1892年)
『亡命者』(1893年)
『ロドニー・ストーン』(1896年)
『ベルナック伯父(Uncle Bernac)』(1897年)
『サー・ナイジェル』(1906年)
その他の小説
『J・ハバクック・ジェフソンの遺書』(1883年)
『ドイル傑作集IIー海洋奇談編』 新潮文庫 1982年所収(他に「縞のある衣類箱」「ポールスター号船長」「たる工場の怪」「ジェランドの航海」「あの四角い小箱」)。
『ガードルストーン会社』(1890年)
『危険!』(1914年)
『マラコット深海』(1929年)
ノンフィクション
『大ボーア戦争』(1900年)
『南アフリカ戦争 原因と行い(The War in South Africa - Its Cause and Conduct)』(1902年)
『魔法の扉をくぐれば(Through the Magic Door)』(1907年)
『コンゴの犯罪(The Crime of the Congo)』(1909年)
『オスカー・スレイター事件(The Case of Oscar Slater)』(1912年)
『フランス及びフランダースにおける戦闘(The British Campaign in France and Flanders)』(1916年-1920年)
『新たなる啓示(The New Revelation)』(1918年)
『妖精の到来(The Coming of the Fairies)』(1921年)
『心霊主義の歴史(The History of Spiritualism)』(1926年)


シャーロック・ホームズのモデルはエジンバラ大学医学部教授ジョセフ・ベル。
また解剖学のウィリアム・ラザフォード教授の豪快さはチャレンジャー教授の人物像のモデルになったという。

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