hiroチャンのブログ -164ページ目

太くて長いアレをくわえてみた・・・。



『フランクって素敵・・・。』





『それは太くて長い私の好物』





(゛`O´)/ コラァー!!





ワタシのフランクに何をするかぁ・・・?














(;`O´)ワタシの大切なフランクをくわえるニャ~!!











(¬w¬*)『きみのだってぇ?』

『名前でも書いてあるのかニャ?』








『フランクフルトgetだぜぇ!』


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沈黙の世界 Le Monde du silence


【ルイ・マル】
Louis Malle
フランスの映画監督。








Louis Malle
生年月日:1932年10月30日
没年月日:1995年11月23日(63歳没)
出生地:フランス共和国・ノール県トゥムリー
死没地:アメリカ合衆国・カリフォルニア州ビバリーヒルズ
国籍:フランス
配偶者:Anne-Marie Deschodt (1965年-1967年)
キャンディス・バーゲン (1980年-1995年)

受賞
アカデミー賞
長編ドキュメンタリー映画賞
1956年 『沈黙の世界』
カンヌ国際映画祭
パルム・ドール
1956年 『沈黙の世界』
ヴェネツィア国際映画祭
金獅子賞
1980年 『アトランティック・シティ』
1987年 『さよなら子供たち』
審査員特別賞
1958年 『恋人たち』
1963年 『鬼火』
ヨーロッパ映画賞
脚本賞
1988年 『さよなら子供たち』
英国アカデミー賞
監督賞
1981年 『アトランティック・シティ』
1988年 『さよなら子供たち』
セザール賞
監督賞
1988年 『さよなら子供たち』
脚本賞
1988年 『さよなら子供たち』

1932年10月30日、フランス・ノール県トゥムリーで富豪の家に生まれる。第二次世界大戦中は疎開。ソルボンヌ大学で政治科学を専攻するが中退し、パリのフランス国立高等映画学院に入学。
1956年に海洋ドキュメンタリー映画『沈黙の世界』を海洋学者であるジャック=イヴ・クストーと共同で監督し、カンヌ国際映画祭パルム・ドールやアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞。1958年の25歳の時に自己資金で製作した『死刑台のエレベーター』で実質的な長編映画監督デビューを果たす。同作はジャンヌ・モローの内省的な演技、アンリ・ドカエの手持ちカメラを主体とした撮影、マイルス・デイヴィスの即興演奏によるジャズと共にマルの斬新な演出が高く評価され、ルイ・デリュック賞を受賞。ヌーヴェル・ヴァーグの初期の作品として有名になるが、マルは『カイエ・デュ・シネマ』誌とは一切関わりを持っておらず、ヌーヴェル・ヴァーグ運動には参加していない独立の作家であるという見方もある。
以後も再びモローを起用した不倫劇『恋人たち』(1958年)、レーモン・クノーの小説を映画化したスラップスティック・コメディ『地下鉄のザジ』(1960年)、自殺を決意した青年の最期の2日間を描いた『鬼火』(1963年)といった多様なジャンルの作品を製作する。『恋人たち』と『鬼火』はヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した。1968年には第21回カンヌ国際映画祭の審査員に選出されたが、五月革命の最中に映画祭を開催することに異議を唱え、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーなどのいわゆるカイエ派の作家たちや同じく審査員だったロマン・ポランスキーやモニカ・ヴィッティらとともにカンヌ国際映画祭粉砕事件を起こし、映画祭を中止に追い込んだ。マルはトリュフォーとともに最も過激な論陣を張ったという。
ヌーヴェル・ヴァーグの勢いが収束し、フランス映画が低迷した1970年代には、思春期の青年を描いた『好奇心』(1971年)や英国アカデミー賞作品賞を受賞した『ルシアンの青春』(1974年)などを製作。その後、1976年にアメリカへ移住し、ニューオーリンズの高級娼館を描いた『プリティ・ベビー』(1978年)やヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した『アトランティック・シティ』(1980年)などを監督した。
1987年にフランスへ戻り、ナチス・ドイツ占領下のフランスの寄宿学校での自身の体験を元にした『さよなら子供たち』(1987年)を製作。戦闘シーンを一切描かず、子供の目線で戦争と反ユダヤ主義を描写した同作で2度目となるヴェネツィア国際映画祭金獅子賞やルイ・デリュック賞、さらにはセザール賞作品賞・監督賞など多数の賞を受賞。
晩年も五月革命下のフランスの田舎町を舞台にした『五月のミル』(1989年)やジェレミー・アイアンズとジュリエット・ビノシュを起用した『ダメージ』(1992年)、アントン・チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の舞台リハーサルをする人々をドキュメンタリー風に描いた『42丁目のワーニャ』(1994年)といった作品を製作。1995年、癌により63歳で死去した。

一時期ジャンヌ・モローと交際していたほか、1965年に最初の結婚。2年後に離婚した後、1970年から73年の間、ドイツの女優であるギラ・フォン・ヴィターハウゼンと交際した。1980年にはアメリカの女優であるキャンディス・バーゲンと結婚し、生涯を共にした。

主な監督作品
沈黙の世界 Le Monde du silence (1956年) ジャック=イヴ・クストーと共同監督

死刑台のエレベーター Ascenseur pour l'・chafaud (1958年) 





(誰かァ・・・Help ニャー!) 



恋人たち Les Amants (1958年)

地下鉄のザジ Zazie dans le m・tro (1960年)

私生活 Vie priv・e(1962年)

鬼火 Le Feu follet (1963年) 


ビバ!マリア Viva Maria! (1965年)

パリの大泥棒 Le Voleur (1966年)

世にも怪奇な物語 Histoires extraordinaires (1967年) オムニバス

カルカッタ Calcutta (1969年) ドキュメンタリー

好奇心 Le Souffle au coeur (1971年)

ルシアンの青春 Lacombe Lucien (1974年)

ブラック・ムーン Black Moon (1975年)

プリティ・ベビー Pretty Baby (1978年)

アトランティック・シティ Atlantic City, USA (1980年)

クラッカーズ/警報システムを突破せよ! Crackers (1984年)

アラモベイ Alamo Bay (1985年)

しあわせを求めて ...And the Pursuit of Happiness (1986年) ドキュメンタリー

さよなら子供たち Au revoir, les enfants (1987年)

五月のミル Milou en mai (1989年)

ダメージ Damage (1992年)

42丁目のワーニャ Vanya on 42nd Street (1994年)

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2つのハイジャック事件


【エジプト航空648便ハイジャック事件】
EgyptAir Flight 648
中東の国際的テロリストによるハイジャック事件である。特殊部隊による強行突入策が裏目に出てしまい、多数の乗客が犠牲になった。

日付:1985年11月23~24日
概要:ハイジャック
乗客数:89(ハイジャック犯3人を含む)
乗員数:6
負傷者数:(死者除く)複数
死者数:60(ハイジャック犯2人を含む)
生存者数:38(ハイジャック犯1人を含む)
機種:ボーイング737・266
運用者:エジプト航空
出発地:アテネ国際空港
目的地:カイロ国際空港

1985年11月23日午後8時05分(現地時間)、ギリシアのアテネからエジプトのカイロに向かっていたエジプト航空648便(ボーイング737、乗員乗客103人)が、離陸から10分後に重武装した国際テロ組織「アブ・ニダル」のメンバー3人(5人または6人との説もある)にハイジャックされ、当時、アブ・ニダルを支援していたリビアに向かうよう機長に要求した。
ハイジャックの目的は、中東問題に対するエジプト政府の姿勢に抗議するためであった。
犯人グループは乗客からパスポートを取り上げ国籍のチェックを始めた。そしてその時に乗客に紛れていたエジプト航空の航空保安員が、拳銃で犯人制圧を試みて銃撃戦となったが、射殺された。犯人側も1名が死亡したと見られ、ほかに乗客2人が負傷した。銃弾で旅客機外壁に穴が開いたため、急減圧が発生、巡航高度を10000フィートにしなければならなくなった。
その後なんとか機体を水平飛行に戻すことに成功したが、低空飛行を余儀なくされた結果、648便は燃料不足を生じた。早急に着陸の必要に迫られた648便は、現在地点から着陸が可能な国はマルタ以外に無く、機長はルカ空港の航空管制官に緊急着陸の許可を要請。だが、テロ事件の経験が無かったマルタ政府は受け入れを拒否、さらに648便が着陸出来ないように誘導灯の照明を消した。しかし燃料が残り僅かだった為機長は暗闇の中での強行着陸を決行し無事にルカ空港への着陸を成功させた。着陸後機体はマルタの警備隊によって包囲された。
犯人グループとの交渉の為、空港にマルタ政府の担当者が駆けつけ交渉が始まり、負傷者2名と女性の一部13人が解放されたが、犯人グループのリビアへ向かう燃料補給の要求、そして直ちに給油に応じなければ15分ごとに人質を射殺すると告げたがこれをマルタ政府は単なる脅しと判断し人質全員を解放しなければ給油には応じられないと回答した。
主犯格のオマル・レザック(Omar Rezaq)がイスラエル人とアメリカ人の乗客を選んで乗降口に連れ出し銃撃、3人を射殺し2人を負傷させた。24日午後、エジプトから緊急出動したエジプト軍特殊部隊の第777戦闘部隊が、C-130輸送機でルカ空港に進出した。
だが、特殊部隊は犯人側の顔や人数など殆どの情報を持っていなかった。
事件発生から25時間後にエジプトの特殊部隊が貨物室に爆薬を仕掛け爆破しそれを合図に強行突入し、犯人との銃撃戦の末にハイジャック機を奪還した。機長が犯人の1人を殴り倒すなど、乗員も機内から協力した。しかし、この銃撃戦で乗客57名が死亡し34人が負傷する大惨事となった。犯行グループが投げた手榴弾3発が客室で爆発し、機体にも引火して火災発生、さらに突入用煙幕で視界が悪いなかでの銃撃戦となったことなどから人質の犠牲が増えた。犯人グループの3人のうち2人は死亡したが、主犯格のレザックは重傷で発見された。機体は数時間にわたって燃え続け、全損となった。
レザックはマルタでの裁判で懲役25年の判決を言い渡されたが、服役7年後にして恩赦が行われ釈放された。しかしアメリカ連邦捜査局(FBI)は、国際刑事警察機構(ICPO)の協力を得てレザックがナイジェリアに向かっているとの情報を入手し、ナイジェリア政府協力の下でFBIはレザックの拘束に成功した。1996年7月にレザックはアメリカの裁判でハイジャックの罪で有罪となり終身刑を言い渡された。現在、レザックはアメリカの刑務所にて刑に服している。

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【エチオピア航空961便ハイジャック事件】
Ethiopian Airlines Flight 961
1996年に発生したハイジャック事件である。犯人がハイジャックした機体では不可能なオーストラリア行きを要求したため、燃料切れを起こし海上に墜落する惨事となった。

日付:1996年11月23日
概要:ハイジャック及び燃料切れによる不時着水。
現場:コモロ空港近くの海上
負傷者数:(死者除く)52
死者数:123(ハイジャック犯3人も含む)
生存者数:52
機種:ボーイング767-200ER
運用者:エチオピア航空
出発地:アディスアベバ国際空港
目的地:フェリックス・ウフェ=ボワニ国際空港

1996年11月23日、エチオピアの首都アディスアベバ発コートジボワール・アビジャン行きとして運行中のエチオピア航空961便(ボーイング767-200ER)が、離陸から20分後に「爆弾(と称される物)」を所持する3人の犯人によってハイジャックされた。961便機長(当時42歳)は、エチオピア航空の中で最も経験豊かなパイロットの一人で、本件以前にも二度ハイジャックを経験している。
犯人たちは副操縦士に怪我を負わせコックピットを占拠、副操縦士は通路側の犯人に客席へと追い出されコックピットは機長と犯人の2名だけとなった。犯人はオーストラリア行きを要求したが、961便はケニアのナイロビなどを経由する予定であったため、オーストラリアまで行くために必要な量の燃料を搭載していなかった。しかし、犯人たちはボーイング767の最大航続距離ならばオーストラリアまで行けると主張し、燃料を搭載していないという機長の意見を嘘と決め付けた。ナイロビに燃料補給のために着陸させて欲しいという機長の提案も拒否された、物理的に不可能なインド洋の横断に挑まざるを得なくなった。
機長は状況を打破すべく管制官と犯人たちを無線で会話させたが、効果がなかった。そこで、犯人らの隙を見計らって乗客達にそれとなく蜂起するよう呼びかけた。偶然乗り合わせていたケニアの写真家モハメド・アミンがこれに応じ、他の乗客達に呼びかけて一部の乗客と客室乗務員が立ち上がり、犯人たちに抵抗しようとしていた。
燃料が切れた961便は、インド洋に浮かぶ島国コモロの空港に着陸しようとしたが、エンジンは停止したため、グライダー状態で高度を落としながら航行。機長は一度は空港を確認したものの、犯人と争った際に位置を見失い、そのため海上に不時着水せざるを得なくなった。数分後、アミンの協力によって副操縦士がコックピットに戻って来たが、機体はラムエア・タービンが起動していたものの一部の油圧システムが動かず、高揚力装置の一部が作動しなかった。そのため機体は175ノット以上(毎時324キロ以上)で着水する必要があったが、高度と速度の調整が間に合わなかったため10度ほど左にバンクした状態で着水した。
左翼から海面に突っ込んだこととボーイング767はエンジンが翼の下に付いていたため、衝撃が瞬間的に加わり機体は4つに分解、機内に海水が流入した。また、不時着水前に機内放送が行われたが、パニック状態の乗客が着水前に救命胴衣を膨らませたことが脱出の妨げとなり死者を増やすこととなった。961便の機体はバラバラになった後、機体後部以外の胴体部分が急速に沈没した。
961便の着水に際し、近くの海水浴場から多くの目撃者がいたため、すぐさま救助活動が始まったが、乗客乗員175名のうち123名が死亡し、機長・副操縦士を含む52名が負傷した。アミンや犯人たちも死亡した。

事件後、犯人たちの目的について調査されたが、政治的な動機や何らかの組織との繋がりなども一切見出すことはできず、犯人たちも死亡したため謎となった。機長との会話で、犯人グループが秘密警察に拘束され拷問を受けていたこと、オーストラリアに支援者がいると話していたとの情報もあって、亡命しようとしたという説が有力視されている。その後の捜査により犯人たちが持ち込んだ爆弾が偽物であったことが判明した。

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