カルカノM1938
1963年11月24日
ジョン・F・ケネディ米大統領の暗殺容疑で逮捕されていたリー・ハーヴェイ・オズワルドが、連行中ジャック・ルビーによってに射殺される。
【リー・ハーヴェイ・オズワルド】
Lee Harvey Oswald、別名Alek J.HidellあるいはO.H. Lee
生年月日:1939年10月18日
没年月日:1963年11月24日
アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディ暗殺の実行犯とされている人物。ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。逮捕直後にジャック・ルビーによって暗殺される。
ニューオーリンズで生まれ育つ、父親はオズワルドが生まれる前に死亡しており、おじのチャールズ・マレット(ダッツという異名があった)に幼児期から思春期の生活を見てもらっていた。マレットはカルロス・マルセロの組織の人間でもあった。兄弟とともに母親に育てられ、成績は平均的。年少期はスパイドラマが好きだった。登校拒否の経験がある。兄が海兵隊に入隊した時、オズワルドは民間の航空部隊(CAP)に参加していた。この頃からロシアの新聞を購読し始める。17歳で海兵隊に入隊、公務の一環としてロシア語を専門的に勉強した。
1957年から翌1958年、日本の厚木基地(海軍厚木航空施設)に勤務していた際には航空管制官を務めた。その頃の月給は85ドル以下。軍病院によると性感染症を「職務の一環」で患っていた。この頃、同僚殺害の容疑を掛けられたことがあるほか、銃の不法所持および発射の罪状で軍法会議において有罪判決を受けている。後述するソ連への亡命時、厚木基地勤務時代に得たロッキードU2偵察機の機密情報をソ連当局に提供し、この情報が元で1960年5月1日にソビエト上空で偵察飛行を行っていた同型機が撃墜されたのではないかといわれている(U-2撃墜事件)。
オズワルドは海兵隊在籍中に、特級射手(expert)、一級射手(sharpshooter) 、二級射手(marksman)の資格について、1956年12月には、一級射手の資格に必要な得点をクリアしている。1959年5月には、二級射手の資格に必要な得点はクリアしているが、一級射手の資格に必要な得点はクリアしていない。そのため、オズワルドがライフルで、彼が証言した位置から移動するケネディを正確に素早く狙撃したという説に対し、一部の懐疑論者は疑問を呈している。
オズワルドが使用したとされるライフル銃・カルカノ

(ケネディ狙撃時にオズワルドが使用したとされる)イタリア製「カルカノM1938」ライフル銃および通販で同時購入した4x18倍率のスコープを使用した、狙撃のエキスパートによる実験では成功例もあるが、オズワルドにそれが可能であったかどうかは判定できない。
オズワルドは日本の厚木基地勤務時代にロシア語を学び、除隊後の1959年、ソ連に旅行に出かけ、そのまま亡命した。アメリカのスパイとして疑われ、追放されることを避けるために自殺を試みた。その後ソ連当局はオズワルドにミンスクでの生活を許可。彼はテレビ工場で働き、ソ連人女性マリーナ(旧名 Nicholayevna Prusakova または Alexandrovna Medvedeva)と結婚した。
ソ連時代のオズワルドは自身をマルクス主義者であると主張し、駐モスクワアメリカ大使館にパスポートを返却してアメリカ市民権を放棄しようとし、大使館員の説得を受けてそのまま帰宅した。この試みについては、ソ連から国家機密を盗み出すためのCIAの工作説や、その後の諜報活動のために「共産主義シンパ」を装うためであったといった説がある。
その後考えを変え、マリーナと娘を連れて1962年にアメリカへ帰国。入国許可が下りるまでに6ヶ月間を要したが、亡命し軍事機密を引き渡した疑いのある人物の帰国をアメリカ合衆国連邦政府は許可した(ただし米軍側はオズワルドが亡命した際コールサインや周波数等を大金を投じ変更する等、漏洩に対する対策を取っている)。仮想敵国の国民であった妻子の入国も許可された。
オズワルドは帰国後、ダラスのフォートワース地区に居住しコーヒー会社で働いた。1963年の春から夏にかけては伯父のダッツ・マレットが運営するニューオーリンズの競馬賭博事業で掛け金徴収人として働いた。
1963年4月10日、反共主義者として知られたエドウィン・ウォーカー将軍(Edwin Anderson Walker)を狙撃したとされる。オズワルドはニューオーリンズに居を移し、フィデル・カストロの支援団体「キューバ公平委員会(Fair Play for Cuba Committiee)に参加、ビラ配布の際に逮捕されている。
1963年9月27日にはメキシコに赴き、ソ連大使館、キューバ大使館を訪問。オズワルドがソ連大使館で面会した2人の大使館員(ヴァレリー・コスチコフ、パベル・ヤスコフ)はKGBの工作員であったとされる。この頃にはロシア人妻との結婚生活はほとんど破綻していた上、仕事もなく無一文だった(帰国した当初はコーヒー会社で働いていたが、2ヶ月で解雇されている)。
その後、デイヴィッド・フェリー、ガイ・バニスターといった反カストロ派の活動家と頻繁に会うようになる。しかし一方で、オズワルドはカストロ支持者として活動するなど矛盾した行動をとった。
ウォーレン委員会は、1963年11月22日午後12時32分、遊説中のジョン・F・ケネディ大統領をオズワルドがテキサス州ダラスの教科書倉庫ビル5階の窓から狙撃し、暗殺したと発表している。

事件発生直後、2階の食堂で食事をしているところを同ビルの従業員に目撃されており、また巡回中の警察官にも確認されている。警察官が管理人にオズワルドのことを尋ねると「ここで働いている」と答えた。その後、建物を出たオズワルドはJ・D・ティピット巡査を職務質問中に殺害、その後でテキサス劇場で警察官殺害容疑で逮捕されている。
オズワルドは、逮捕直後から記者団の前で「過去の亡命につけこまれた」「自分は嵌められた」「身代わり(patsy)」と主張し、また弁護士不在についても異議を唱えている。記者に顔の傷の事を問われると「取調べ中に警官に殴られた」と語っている。なお、ダラス警察のジェシー・カリー本部長は拘留中のインタビューで、取調中のオズワルドの様子について「非常に横柄な態度」「犯行は全面否認しているが、(自分は)彼が間違いなく犯人と信じている」とコメントしているが、拘留中の尋問調書などは全く残っていない。
逮捕から2日後の11月24日午前11時20分頃、ダラス警察の地下駐車場で、郡刑務所へ移送される車に乗る直前にジャック・ルビーによって銃撃された。

すぐに救急車でパークランド病院へ搬送されたが、警察は同日午後1時7分に死亡したと発表した。
暗殺事件前後に「オズワルド」を自称する者が複数目撃されたという証言や、狙撃時のオズワルドの所在について、教科書倉庫ビル2階の食堂で昼食を摂っていた姿を目撃した証言もあるなど、オズワルドは実行犯ではなく身代わりとして行動したと主張する論者が多数存在する。
マフィアとの関係が指摘されるルビーが何故容易に警察署に入ることができたのかという疑問や、ルビーがオズワルドを暗殺した理由が不可解(ルビー曰く「ジャクリーン夫人が悲しむのを見て義憤にかられた」)であること、オズワルドとルビーの間には共通の知人が何人もいたこと、さらに2人が顔見知りであったという証言もあるなど、暗殺の実行犯はオズワルドではない、あるいは単独犯ではないという説は未だ根強い。
しかしながらウォーレン委員会の正告によると、「様々な物的証拠を検証するとオズワルド単独犯で説明がつく」と結論されている。
2021年7月24日に機密資料3810点、法律の期限切れとなる10月26日に2891点が公開された。一方で、公開が保留された一部の資料については、最終的に判断が延期され、2021年10月までに改めて公開の是非を検討することとなった。2021年10月23日、ジョー・バイデン大統領は未公表の資料の全面公開を2022年12月15日まで再延期することを発表、同年12月15日に新たに機密資料1491点が公開された。2022年12月15日には機密資料1万3000点を公開した。ホワイトハウスは今回の公開で、全体の97%以上が公表されたことになると発表、同時に2023年6月まで一部資料の非公開を決めた。理由は「特定による危害」を防ぐためだと説明した。その後、2023年6月30日に米国立公文書館は機密文書の検証を完了し、2600点の機密資料を公開したこと、これにより全体の99%が公開されたことを発表した。
2025年1月23日、大統領に再就任したドナルド・トランプは事件に関する機密文書の指定を解除し、15日以内に公開するよう命じる大統領令14176号に署名。3月18日、8万ページにも及ぶ資料が公開された。
Operation Dragon Rouge
1964年
ドラゴン・ルージュ作戦を展開するベルギーのパラシュート部隊がコンゴ民主共和国のスタンリーヴィルに降り立ち、シンバの反乱軍勢力に捕らえられていた人質を多数救出。
【ドラゴン・ルージュ作戦】
Operation Dragon Rouge
時:1964年11月24日
場所:コンゴ民主共和国 スタンリーヴィル
結果:ほとんどの人質が救出された
衝突した勢力:ベルギー・アメリカ合衆国 対 シンバ反乱軍
戦力:パラシュート部隊320人・奇襲部隊128人 対 反乱兵300-500人
被害者数:ベルギー・アメリカ合衆国 2人死亡、12人負傷。 シンバ反乱軍 不明。24人の人質が殺害。
ドラゴン・ルージュ作戦は1964年にベルギーのパラシュート部隊が行ったコンゴ民主共和国スタンリーヴィルでシンバ反乱軍に捕らわれた人質の救出作戦である。
《背景》
1964年までにコンゴ民主共和国政府は西洋諸国の支援を得て、シンバ反乱軍を鎮圧する足掛かりを得ており、シンバ反乱軍は敗北が濃厚となった。このため、自らの支配下にいる白人を人質にした。数百人の人質が、スタンリーヴィルに連れられ、ヴィクトリアホテルで監禁された。
コンゴ民主共和国政府はベルギーやアメリカ合衆国に援助を求めた。
ベルギー陸軍がアメリカ第322空輸師団によりレオポルドヴィルに送られた。救出作戦はベルギー・アメリカ両政府により練られた。また、シンバ反乱軍との人質の交渉は失敗していた。
《作戦》
作戦はベルギー陸軍のシャルル・ローラン大佐により行われた。1964年11月24日、アメリカのC-130 ハーキュリーズ5機から320人のパラシュート部隊が、スタンリーヴィルに降下し、一部の人質が殺害されたが、大半の欧米諸国の人々が救出された。
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2017年
エジプト、アリーシュ近郊にあるローダ(Rawda)モスクを武装集団が襲撃。300人以上が死亡。
【2017年アリーシュ・ビール・アルアベドテロ攻撃事件】
2017年11月24日19時30分(EET)頃にエジプトの北シナイ県アリーシュ ビール・アルアベドで発生したテロ攻撃事件。
場所:エジプト 北シナイ県アリーシュ
日付:2017年11月24日 19時30分頃(EET)
攻撃手段:爆発物及び銃砲による無差別襲撃
死亡者:305名
負傷者:128名
《概要》
2017年11月24日19時30分(EET)頃、エジプト・シナイ半島北部の都市であるアリーシュ西部のビール・アルアベドのモスク(ムスリム礼拝施設)に於いて、金曜日の集団礼拝の為に地元市民を始めとする人々が集っていたという。そこへ乗用車4台に分乗した武装集団が爆発物を投入し、或いは銃砲射撃を行うなどしてモスクに居た人々を無差別に襲撃した。
武装集団はなおも攻撃の手を緩めず、負傷者搬送のために現場へ急行した救急車に対しても無差別に銃を発砲したと伝えられる。
エジプト検察当局は、本事件で死者235名、負傷者は109名と発表した。
《エジプト政府・軍の対応》
エジプト国防軍は事件発生を受け、直ちにアリーシュ近郊の山岳地帯に於いて空軍軍用機による空爆作戦を実行し、「武装集団がモスク襲撃に使用した乗用車、そして彼らの隠れ家を破壊した」と発表した。
本事件に際し、エジプト大統領・アブドルファッターフ・アッ=シーシーはテレビ演説を行い、「我々はテロとの戦いにおける決意と団結をより強める。そして軍と警察はテロリストに復讐する」などと語った。そしてエジプト全土でこの日より3日間、国家服喪期間と定めたことを発表した。
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D.B.Cooper
1971年11月24日
アメリカでハイジャック「D.B.クーパー事件」発生。犯人は身代金20万ドルを持ってパラシュートで脱出、逃亡。未解決事件となる。
【D.B.クーパー事件】
D. B. Cooper
アメリカ合衆国で発生した、身代金を要求したハイジャック事件である。単独犯による事件であり、パラシュート降下による逃亡という大胆さなどから、アメリカ国内においてもっとも有名な未解決事件の一つとされる。
D.B.クーパー事件
FBIが公表した被疑者の似顔絵

場所:アメリカ合衆国 ノースウエスト航空11便
日付:1971年11月24日
16時35分 ・ 20時11分ごろ (UTC -8)
アメリカ合衆国で発生した、身代金を要求したハイジャック事件。
武器:ダイナマイト
損害:現金200,000ドル
犯人:不明(通称「D.B.クーパー」)
動機:身代金の奪取
犯人は身代金を受け取った後、飛行中のボーイング727から、現金20万ドル(2012年時点の貨幣価値にして約1億円)を持ってパラシュートで脱出した。事件後も犯人は検挙されず、また身元も不明のままとなった。
(大胆な計画ではあったが、果たして・・・。パラシュート男は何処へ。)

後に身代金の一部がコロンビア川で発見され、犯人は死亡したともいわれているが、死体は発見されていない。
「D.B.クーパー」はFBIの手配の際、手違いで広められた犯人の名前であるが、犯人による自称「ダン・クーパー」もまた偽名であることは確実である。
感謝祭前日であった1971年11月24日、経由地のオレゴン州ポートランドからノースウエスト航空11便(ボーイング727-100型、ワシントンD.C.発シアトル行き)には、乗員6名と乗客36名が搭乗していたが、その1人が「ダン・クーパー」の偽名で搭乗していた犯人であった。
16時35分(現地時間)に離陸後、犯人は機内サービスの際に客室乗務員の女性に代金と一緒にメモを渡した。乗務員は、当初は自宅の電話番号のメモだと思ったが、犯人は「爆弾を持っている」と告げたため確認すると、爆弾を所持していることと身代金20万ドルとパラシュート4つを要求する脅迫状であった。また隣に座るように要求した。
そのため客室乗務員が操縦席に連絡したが、パイロットは疑わしいと思い、犯人の隣に座り本当に爆弾を持っているかを尋ねると、犯人は持っているブリーフケースを開け、そこには赤い管と導火線(ダイナマイト)が見えた。そのためパイロットは管制官にハイジャックされたと告げ、それに対し当局は犯人に従うように指示した。犯人の態度はいたって紳士的であったと言われている。
17時45分に旅客機はシアトル・タコマ国際空港に緊急着陸、身代金とパラシュートと引換えに犯人は乗客全員と客室乗務員2名を解放した。19時45分にシアトルを離陸、犯人は機長に対しネバダ州リノに向かえと要求し、高度1万フィート(約3000m)に維持したうえでランディングギアを出し、フラップの角度を15度下げて飛行するように指示した。こうすることにより、空気抵抗が生じ、速度は時速320キロまで落ちていた事が判明している。
犯人は20時11分ごろに、ボーイング727の後部にあったエアステア(昇降用階段)を空中で開き、2個のパラシュートを抱えて現金と共に脱出した。
その様子は追跡していた空軍のF-106戦闘機2機の視界がきかなかったため確認できなかったが、犯人はポートランドの北30マイル(約50キロメートル)にあるアリエルの郊外に降りたと思われていた。その後当局は18日間捜索を行ったが、犯人の行き先に関する手がかりはつかめなかった。
捜査当局が「ダニエル・B・クーパー」という名の男性を被疑者として一時拘束したが、犯人の名乗り自体が偽名である事が判明した。しかし、「D.B.クーパー」が被疑者であるかの誤解を報道機関に与え、世間一般に後者の名が広まった。ほとんど指紋を残さないなど、その完全犯罪ぶりにD.B.クーパー人気は社会現象になり、事件のあった日は「ダン・クーパー・デイ」として記念日的扱いを受けた。FBIに悪戯で「俺がD.B.クーパーだ」と名乗りだす者が続出したり、ホームパーティーにスーツを着用、札束を身につけたクーパーの仮装で登場した者も現れたほどであった。
D.B.クーパーの行方は・・・?
D.B.クーパーがどうなったか、もしくは素性については諸説ある。
《逃亡説》
1972年に「パラシュートによってハイジャックした旅客機から逃走しようとした事件(模倣犯)」が3件発生した。最終的にはいずれも検挙されたが、D.B.クーパーだけは足取りがつかめなかったため、完全に逃げ切ったというもの。
《死亡説》
事件から8年が経過した1980年2月13日、ワシントン州バンクーバー郊外のコロンビア川畔で、ピクニックに来ていた家族によって、D.B.クーパーが奪ったとみられる5,800ドル(20ドル紙幣の束であったという)が発見された。そのため、「コロンビア川に落ちて溺死した」、もしくは「冬の夜の寒さで凍死した」などと噂された。
また、D.B.クーパーが使用したパラシュート2つのうち、1つは空中では展開しない地上訓練用のダミーであったため、「パラシュートが開かずに墜落死した」という説もあった。
《逃亡後死亡した説》
2011年8月2日付の「ロサンゼルス・タイムズ」など複数のメディアによると、FBIの特別捜査官が「約10年前に老衰で死亡した男性の正体がD.B.クーパーである」という証言を入手。死亡した男性の指紋、DNAと事件当時機内に残された指紋、遺留物に付着したDNAの鑑定が行われている。この結果、同一人物であると判明した場合、犯人は犯行後に約30年間逃げ延びた後、逮捕されずに死んだことになる。
リチャード・マッコイ説
1991年に出版された書籍『D. B. Cooper: The Real McCoy』では、「1972年に同様のハイジャックを起こしたリチャード・マッコイが犯人ではないか」という説が主張された。マッコイは勲章も受けたベトナム帰還兵で、当時はユタ州兵にヘリコプター操縦士として勤務しており、また熱心なスカイダイバーとしても知られていた。このようにD.B.クーパーの犯人像に重なったばかりか、人相も似顔絵と酷似していた。マッコイは身代金を奪取してパラシュートで降下したが間もなくして逮捕され、後に脱獄するものの、潜伏先を突き止めたFBIとの銃撃戦の末に射殺された。
2000年、ある女性が1995年に死んだ夫につき「夫が死ぬ間際に、D.B.クーパーであったと告白した」とする記事が「U.S. News and World Report」に掲載された。同記事は「夫の筆跡と、犯人メモの筆跡がよく似ていること」などを根拠にしている。
この事件を扱った映画やドラマ
プリズン・ブレイク
ドラマ『プリズン・ブレイク』シーズン1 の登場人物である「チャールズ・ウェストモアランドが、実はD.B.クーパーである」と、他の囚人から噂される描写がある。チャールズは犯行後、着地の際に足を負傷して、金を土に埋めた後、自動車の運転で人をはねて逮捕されている。
NUMBERS
ドラマ『NUMB3RS』のシーズン6、10話には処分の為に輸送される古札を狙った連邦準備銀行強盗団を制圧した際、D.B.クーパーが盗んだとされる紙幣が紛れていた話が有る。D.B.クーパーが複数犯で、主犯格は仲間に殺されていて残った1人も多発性骨髄腫で余命4カ月、ほとんどの金は主犯格が虐殺したベトナム・ヌバク村の復興に送られたことになっている。
映画「ハイジャック・コネクション/クーパーの大仕事」
1981年の映画『ハイジャック・コネクション/クーパーの大仕事』(原題:The Pursuit of D. B. Cooper)では、冒頭でD.B.クーパー事件を元にしたハイジャック事件が描かれる。物語のほとんどは保険調査員(クーパーの軍隊時代の元上官)がクーパーを追跡するフィクション。
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