幼い頃誰もがそうであったように、私もかつては「何者か」になれるものだと信じてました。
そしてそれは何かしら「才能」があれば、より自分を強く信じられるものだと思います。
幸いなことに私には神より与えられたと思える才能がいくつかありました。
こんな感じであれば良かったのですが。
ボールを遠くまで飛ばす能力、卓越した空間把握能力、正確なリズムを刻みながら発揮できる絶対音感・・・・。
であればよかったのですが、私が神より与えられりし才は
「お風呂の手動お湯はりを適量で止める」才能でした。
まあ、あるだけマシレベルの才能でしたが、それでもまだ若い頃は「何者か」になれるという希望は持っていたように思います。
ですがお風呂の給湯が全自動になったとたん、この才能はあっけなく無用の長物に。
そんな何者かになる、という夢も潰えそうになった10代も終わりの頃、新たな才能に目覚めたのです。
それは
「バイクでの目的地までの所要時間が正確に判る」才能。
確かにバイクは渋滞の影響は少ないのは事実ですが、全く皆無かといえばやはりそうではありません。
学生時代、実家の大阪と下宿していた名古屋の間を下道で何往復もしましたが、距離はそれなりにある(200km弱)ので、交通状況や天候などで所要時間は結構差が出ます。
ですが毎回出発する前に立てる予想時間と実際の所要時間は毎回5分と違いませんでした。
「この時期この時間、渋滞なければ5時間だから余裕もって5時間半みとこ。でも30分はまあ余るよな。」と思っていたら、しっかり予想外の箇所で渋滞が発生し5時間半かかる、といった具合です。
この才能も社会人になってからしばらくの間は重宝したものですが、「カーナビ」の普及とともに大して必要のない才能と化してしまいました。
30代にもなると自分が何者かは大体分別がついてきます。
ちなみにこの時期に開花した才能は
「2杯以上のカップラーメンに必要なお湯を正確に沸かす」才能。
家族分のお湯を沸かす機会に大いに役立つとはいえ、だんだんどうでも良くなってきます。
そして40代も半ばを過ぎ、もはや新たな才能の発露も無かろうと思うようになり、かつては何者になれるか、と考えいた事すら忘れていたここ数年。
また新たな才能があるような気がしてきました。
それは
「外国人から話かけられる」才能。
ちなみに私はどうみても日本人的風体であり、パッと見でも英語をしゃべれるようには見えず、また実際その通りなのですが、偶然にしては回数が多すぎるのです。
先日、日帰りで日光に行った際も、東武浅草駅では台湾から来た感じのお姉さんに切符の買い方を尋ねられ、混雑する都営浅草線の中では妙齢のおば様に「sorry!(with満面の笑み)」と断りを入れられつつつり革代わりに腕を組まれる始末。
ともにカッコ良く英語で対応できればよかったのですが、そもそも大阪人が東京で外国人向けの切符の買い方を聞かれても答えられるはずもなく、妙齢のおば様に至っては同行者との会話を聞くとラテン系の言語であったために必要以上に狼狽したあげく「オ、オウケイ・・・」としか言えない体たらく。
「話しかけられる」才能に足りない「言語」能力というのはなかなかにアレですが、完全自動翻訳機が発明・普及されるまでにはこの才能を開花させてやる、と己に誓いつつ日々DSの「英語漬け」のスイッチを入れる毎日を送っています。
何者になれるのかは不明ですが。
きっとこんな天使が気まぐれで才能を与えてくれているのでしょう。

