そろそろ長野市平野部の日本蜜蜂巣内では新たな働き蜂成虫の羽化が始まっている。

 

例年の [ 長野市北部 ] における日本蜜蜂の育児開始期は [ 1月15日前後 ] で、日照量の多い [ 長野市南部 ] では [ 1月5日 ] あたりには育児を始める蜂群がいる。暖冬となっている今冬は気温が高めなので、長野市北部でも1月に入って早々に育児を始めた日本蜜蜂がいるはずだ。

 

そんな春を感じる季節に入ると、私は城ヶ島へ出掛けたくなる。城ヶ島は三浦半島の南端にあってとても暖かで、海辺はサンゴのかけらで埋め尽くされている。以前には城ヶ島大橋を渡るには有料だったが、現在では開放されて無料になっている。

 

海中と地上では季節が逆になるので、現在の海を覗き込むと様々な海藻が茂っておりとても楽しい磯の観察ができる。そして付近の大気は磯の香りがして心地よい。そんな城ヶ島にある鮮魚店あるいは釣船店の店先にあった水槽に入っていたタコを触ったのが原因で、実は私は生きたタコが苦手になった。水槽の上から覗き込むようにして人差し指でタコに触れようとしたら、タコの方から長い足を延ばしてきて [ ペロンッ ] と私の指に巻き付いたのである。以来、私は生きたタコは苦手だ。

 

昔とは異なり高速道路が完備された現在、出かけて行くとしたら関越道を走って圏央道へ入り、茅ヶ崎の方を回って三浦半島を南下すればよいか。そして横須賀へ回り [ 戦艦 みかさ ] を見学したい。できることなら途中の逗子市消防署近くの友人宅にも顔を出したいところだ。

季節がら、毎年2月に入る頃にはこのような気分になるのが私の常。しかしながら最近続いた大きな地震への不安から躊躇してしまう。

 

関西方面では、そろそろお遍路のシーズンに入る。梅の花が咲く中を9人乗りタクシーや大型バス、個人の自動車などで大勢が巡礼を始める季節だ。春めいてくると四国にお住いの養蜂家の中にもお遍路に出かけたくなる人もいると思う。そんな四国遍路において、私にとって難所だった場所をいくつか紹介したい。

 

① 第1番 霊山寺を出発してからの25日間

これは悲惨だった。足裏が連日ひどく打撲し、加えて3重に重なるマメができた。膝を壊してしまったのか、就寝中には寝返りをできないほど膝が痛くて眠れず、5mm、1cmの段差を超えるのが苦しかった。ところが遍路開始から30日目を迎える頃にはスポーツ選手のように強靭な体になっており、海抜300mの谷間から海抜2000mにある四国最高峰 石鎚山の山頂まで一気に登ったが、ハッキリってまったく疲れを感じないほどだった。ただ、この時には、登っても登っても延々と続く急こう配の上り坂の登山道に [ いつになったら山頂へ到着できるのだろうか?] と疑問と不安を感じた。

 

② 第11番 藤井寺~流水庵(第12番 焼山寺)

何度か紹介しているが、藤井寺へ向かう時から台風の影響で豪雨になっており、私は豪雨の中をずぶ濡れになって藤井寺を参拝し、その日の宿になった流水庵へむかった。藤井寺から出発してしばらくの間は急な斜面を登ってゆく。ところが昔からの遍路道ゆえにその道が掘れて低くなっていて、そこへ豪雨による雨水が流れ込むため、私は膝まで水につかりながら小さな渓流となった遍路道を登って行った。これは [ 10月21日 ] の事でまだ暖かい時期のため、体が冷えて困るようなことは無かったが、全身ずぶ濡れになり、生まれて初めてここで五右衛門風呂(流水庵)に入った。

 

③ 第23番 薬王寺~第24番 最御崎寺(室戸岬)

痛む足を引きずりながら歩いている時期だったので、朝、山門前にある宿を出て参拝のため 第23番 薬王寺の急で長い石段を上り下りするのが大変だった。次の第24番 最御崎寺へ向かう時には、休憩をすると足の痛みの感覚が戻ってきてしまうので、食事とトイレ以外には休憩をするわけにいかなかった区間である。その遍路道の工程は 約77㎞もあるため、私は3日間かけてようやく室戸岬にある 第24番 最御崎寺へたどり着けた。それまでは1日間で幾つかの寺を巡礼できたのに、いきなり3日間歩き続けてようやく到着できる 第24番 最御崎寺に、途中で心が折れそうだった。

 

④ 第40番 観自在寺~

遍路中、[ ジュースなど清涼飲料水を飲まない ] との禁をたてて巡礼していたのだが、第40番 観自在寺から次のお寺へ向かう峠越えの時、偶然にして水筒および弁当の代わりにしていた生柿とミカンを食べきっており、加えて峠までの途中に2カ所あった弘法大師ゆかりの泉すらも干上がっていて、脱水症状を起こし動けなくなった。しばらくして足元の遍路道の両脇に大量の野イチゴが連なって実っている事に気付き、この野イチゴを大量に食べる事で水分をとって峠を越えることができた。この場所は難所ではないが、私にとってはとても苦しい場所であった。阪神淡路大震災の前年にあたるこの年、四国では過去最悪の干ばつになっており、有名な溜め池である満濃池すらも干上がっていた。

・・・ちなみに清涼飲料水は一度も口にしなかったかというと、食事場所がなく食料も飲み水も持ち合わせが無かった時に、一度だけ [ 缶入り甘酒1本 ] を自動販売機で買って飲んだことがあった。その時の言い訳は [ これはご飯(昼食) ] であった。