春爛漫と諸行無常


桜の花もあらかた散り、すっかり葉桜が目立つようになってきた。昨年まではコロナ禍で花見どころではなかったが、今年は都内の桜の名所を巡り、久しぶりに春爛漫を楽しんだ。

今はハナミズキやマーガレットが咲き誇り、気持ちの良い季節を味わっている。都内の神社では紫色の藤や真っ赤なツツジも見頃を迎えている。まさに春爛漫。

毎年繰り返しやって来る春を当たり前のように満喫しているが、去年の春と今年の春は同じように見えても決して同じではない。

凍てつく冬が去り、水温む春にななると自然と心が弾んでくるわけだが、同じように訪れてくるように感じている四季は去年の四季とは別物であり、一つとして同じものはなく、同じ時間もまた無い。

ここ10年で2度の大病を経験したが、2度とも無事に健康を取り戻すことが出来た。健康が当たり前の時の春と健康を害した時の春は全く違うものだと実感した。


病魔は何の前触れもなく忍び寄ってくる。一歩間違えれば当たり前のように春爛漫を謳歌することなど夢のまた夢になっていたのだから、いつも通りの春など本当は存在せす、毎日が一期一会の経験なのだと実感する。


今年は元旦に能登半島地震があり、またその後も全国各地で地震が繰り返し発生していて油断は禁物だ。自然の脅威には抗うことが出来ない。いつも通りで同じように見えているが、時間の経過と共に状況も変化し別のものに姿を変えていく。諸行無常は今の世界にも通じている。


今年は天変地異だけで無く、訃報も多かった。特に身近な友人の訃報を受け辛くショックが大きかった。友人は健康生活のお手本のような生活を長年続いてきたのを知っていただけに訃報を俄かには信じられなかった。理想的な健康生活に努めていても、病魔は誰にでも忍び寄ってくるのだと改めて痛感した次第だ。だからといって、努力することが無意味な訳ではない。

ベストを尽くしていれば、少なくとも怠惰な自分への後悔はしなくて済む。どんな結果になっても天命には逆らえない。

世の中は無常ではあるが、決して無意味でも無情でもない。世の中には永遠に続くものはなく、変化し移り変わってしまうものだとしても、儚く虚しいものだとは限らないと感じているからだ。

伊勢神宮の常若という教えや、日光東照宮の逆さ柱の教えは参考になる。永遠には続かないのなら自ら破壊を繰り返し常に若返る。また、完璧は崩壊に繋がるなら敢えて完璧にしない。無常も視点を変えて見てみると希望の光が微かに見えて来る。


閑話休題①。

ハードルが高く自信が持てない課題に直面し、その場から逃げ出したくなる不安な気持ちと闘いながらも、清水の舞台から飛び降りる覚悟で思い切って一歩前に歩み出した経験は人生の後悔を減らしてくれている。失敗した後悔よりも、挑戦せず一歩踏み出せなかった自分への後悔の方が悔しいに違いないからだ。後悔が少なければ世の中の無常も違って見えて来る。

世の中の無常を受け入れてみると不思議と心が穏やかになることが出来るような気がする。そして何気ない瞬間にふと幸せを感じ、感謝の気持ちに包まれるように感じるようになってくるのは新しい発見である。

常に目標を定め努力や向上心を求められる世界から離脱して、あるがままに過ごすというのも案外居心地が良いものだと感じる。

あるがままに居られる開放感は思いの外、嬉しいものだと感じる。

閑話休題②。

大切な人を守り幸せにしようと尽くせば尽くすほど、自分自身の中で幸せを感じ喜びに包まれる。褒められたいのではなく尽くすことそのものに喜びを感じるという幸せが確かにある。幼い子を必死に世話するのは褒められたからではなく尽くすこと自体が喜びになっているからだ。尽くす喜び、感謝を表現する喜びは深い。

そういう経験をすると人は自然と自分を取り巻く全てのことに感謝するようになってくるように感じる。感謝が感謝を呼び込んで循環し始める。与えているつもりが、逆に与えられる、喜びに包まれる。災害地にボランティアに向かい、逆に救われ優しさに包まれて帰ってくる経験とも通ずるものがある。


人間の欲望にはキリがない。

足るを知るというのは、適当なところで満足しろという意味では無く、満ち足りるという経験を通じて感謝の境地に気付きなさいということなのかも知れない。


今年の春爛漫を堪能させていただが、来年もまた春の喜びに包まれることが出来るだろうか。未来のことは知る由もないが、自分に出来るベストを尽くし、日々淡々と毎日を過ごしていくことにしようと思う。

気が熟したら、あれこれ考えていることにも挑戦してみようと思う。焦らず弛まず躊躇せす。