生き甲斐が無いと駄目ですか?


中高生の頃は何も疑問を感じることなく、受験勉強に向き合い、就職して社会人になると、与えられた職務に没頭し、いつの間にか仕事が趣味だと感じるようになっていた。多くの中高年のサラリーマンにとって、モーレツや、企業戦士、と言う言葉が当たり前の時代を生きてきたのではないかと思う。

しかし世の中はモーレツからビューティフルにかわり、いつしか世の中は働き方改革が進み、飲み会や残業は時代遅れとなった。部内旅行や社員旅行等は20数年前には姿を消し今では死語になった。

個々人の事情や価値観が何よりも尊重されるようになった。時代が変われば価値観も変わる。

仕事に熱中する中で自己実現を果たし喜びを感じてきた不器用な企業戦士は、定年退職後の喪失感に悩まされることは想像に難くない。悠々自適という美しい言葉の裏には有り余る時間に暇を持て余す恐怖が潜んでいる。

先輩諸氏や仲の良い同級生からは生涯熱中出来る趣味を持つべきだと忠告してくれ、成程その通りだと納得し、15年ほど前からあれやこれや手当たり次第に試してきた。熱心なゴルフ仲間に誘われてゴルフにも足繁く出向き毎回楽しんでいたが、生涯の趣味とは違う。何故なら寸暇を惜しんで打ちっ放しの練習場に通う気にならないからだ。海釣りの好きな友人やキャンプ好きな友人と連んだこともあったが生涯の趣味とは感じなかった。競馬好きな友人に誘われて競馬場や場外馬券売場に通ったこともあるが、予想が当たって配当金を手にしても湧き上がる喜びを感じないので賭け事には向いてないと諦めた。ビートルズのlet it beを弾いてみたいと自己流でピアノの練習に励んだこともあったが、見事に挫折した。


老いてなお熱中出来る生き甲斐を持っている人は素晴らしい。しかし熱中出来る生き甲斐や趣味が見つからないからといって不幸な訳ではない。それなりに毎日喜怒哀楽があり、楽しく生きていられたら充分幸せだ。熱中出来る趣味

熱中出来る仕事や趣味が無いからといって無意味に生きてる訳では無い。愚痴をいったり、笑ったりそれなりに楽しく生きることは出来る。楽しく一日が過ぎ、また明日が来ることが嫌でなければそれで充分なのではないか。熱中出来る趣味が有ればあるで良し。無くても良し。無理矢理用事や趣味を見つけ出しても新たな苦痛の入口になるだけかもしれない。

無為に生きることは無気力に生きるなとは違う。

生きることに過大な荷物や深い意味は必要無い。


日常の喜怒哀楽を精一杯楽しめたら充分幸せ。頑張って気力がみなぎっていないと価値がない訳ではない。目的ややり甲斐があったらあったで良いし、熱中出来ることが無いと無駄な人生という訳でもない。生き甲斐が見つからない、夢中になれる趣味が無い。だからと言って決して不幸ではない。何かと依頼され雑事に追われ多少なりとも人の役になった事を嬉しく感じる。時に美味いご馳走を食べに出かけ、時に旧友とリモートで酒を酌み交わし与太話に花を咲かせる。ガチガチに予定を埋めるのでは無く適度な緊張感で充分なのではないかと感じている。先の事は分からない。数年後には大学に戻り学生に混じって改めて勉強を始めているかも知れない。今は機が熟していないが準備だけは欠かしていない。

生き甲斐や熱中出来る趣味が無い事に悩み、心を乱すのはもはや煩悩と言って良いのでは無いか。生き甲斐を見つけ、趣味に熱中出来る人生が高等で無趣味な人生が下等だと決めつけるのは正しく無い。一日一日が何事も無く時折り笑顔になれていればそれ以上の事はオマケだろうと思う。明石家さんまさんが良く口にする、生きてるだけで丸儲け。は案外真理をついている。そこには感謝がある。生きていることへの感謝が有れば危機に立たされ辛い時でも立ち直れる。充分した趣味が無い事を嘆くのは大富豪では無いことと嘆くのとあまり変わらない。無い物ねだりは不幸の始まりだ。足るを知る。

生き甲斐や熱中するものが無いと駄目だと思い込むことこそが執着であり煩悩と考えてみると気が楽になる。

幸いあくせく働き続けないと生活出来ない訳ではない。しかし働いてはいけない訳でもない。気分次第で決めれば良いのだから解放感は大きい。

と言うことで、引退後しばらくはのんびりゆったり時が過ぎるのを楽しみながら過ごしていきたい。