家族感(観) | 釈徹心のブログ

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難聴当事者の生活の中で見えたことを中心に、
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 夫婦別姓や子の共同親権が国会でも取り上げられ議論噴出していますね。

 

 余談ですが、

これら「家族のありよう」(家族観)への色々な意見をブログや国会討議などを読んでいるとついつい100年以上前に書かれたエンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」を思い出します。

 

 僕は基本的には夫婦別姓や子の共同親権には反対していない。

反対していないというより賛成である。

 

 子の共同親権に関しては、夫婦の離婚原因は色々あるのは僕も知っている。その中でも配偶者による養育放棄・家庭内暴力(性的・肉体的・精神的・経済的などのDV)を起因とした離婚については共同親権が及ぼす被害拡大が懸念されることから共同親権に反対との意見は十分に理解できるし、また 当然の意見だと認識しています。

 また、離婚時に取り決められた子への扶養義務の履行、特に経済的な部分で履行されないケースが多々あることは各種調査でも明確に指摘されている。

 

 上記のことを考え考慮した上でなお、僕は共同親権を認めるべきだと思っている。個々の案件や懸念に対しては家庭裁判所や調停機関の「健全」な運用により共同親権剥奪であったり接触禁止など命令を法的担保をした上で行えば良いのではないだろうか。

 家裁や調停機関の人員不足から迅速な判定がなされない現実が今尚続いている。

 先ずは国家として、児童相談所や緊急避難所などを含めた諸機関の予算を増大し場所と人員の拡充、DV加害者への医療面からのサポート・ケアーの法的確立が被害拡大防止への一里塚ではないかと思っている。

 

 夫婦別姓や共同親権を認めることは選択肢を広げることになり、個々の状況に合わせた家族のありようが選択できるのではないだろうか。

 子の共同親権が個人の財産の平等分配が法的に担保されるという面も忘れてはならない思っている。

 

 国家の基本的最小単位は「家族」であるのは今も昔も変わらない。

もちろん婚姻を選択するも個を選択するも個人の自由であるを踏まえてのことです。