私が医師になったばかりの頃、目指していたのは「病気を見つけ、治療できる医師」でした。しかし診療を重ねるうちに、「病気を見つけても治療できない患者さんがいる」という現実に直面しました。そして、そのような患者さんに本当に必要なのは「治療」ではなく、「癒し」ではないかと考えるようになりました。さらに年月を経るにつれ、その思いは「治療の可否にかかわらず、すべての患者さんには癒しが必要である」という確信へと変わっていきました。この価値観の変化は、患者さんへの接し方や診察のあり方そのものを少しずつ変え、結果として患者さんとの関係にも大きな影響を与えたように思います。
このような変化は、誰かに教えられたものではありません。日々の診療のなかで、患者さんとの出会いを通して自ら感じ、迷い、修正を繰り返しながら培われてきたものです。
医療を実践するためには、Science(科学)とArt(技術・人間性)の両輪が必要であると私は考えています。もちろん、科学的根拠を学び続ける姿勢は医師にとって不可欠です。Scienceを軽視することは、患者さんに不利益をもたらしかねません。だからこそ、生涯にわたり知識を更新し続ける責任があります。
一方で、近年、ある出版社の方からお声がけをいただき、英語で出版されている外来診療に関する書籍を日本語に翻訳・出版することについて意見を求められる機会がありました。
原著を読み進めると、その内容は診療におけるArtの本質を丁寧に描いたものでした。そして私は、自分自身が長年の診療のなかで挫折を経験し、少しずつ診療観を変化させてきた軌跡が、あたかも言葉としてそこに表現されているような感覚を覚えました。
その一方で、ある疑問も湧きました。この本を若い医師が読んだとき、果たしてどのように受け止めるのだろうか、と。
もし診療とは「病気を見つけて治療すること」であるという段階にとどまっているならば、この本の真価は十分には伝わらないのではないでしょうか。私自身、診療のなかで思い通りにならない患者さんに出会い、自らの無力さを痛感し、その経験を通して初めて診療におけるArtの重要性に気づきました。そのような経験を経ず、「感じる準備」が整っていない段階では、この本が語る本質は単なる理念として読み流されてしまうかもしれません。
Artとは、果たして言語だけで教育できるものなのでしょうか。その疑問は今も私の中にあります。
以前、このことを強く考えさせられる出来事がありました。
ある日、腹痛を訴える患者さんから往診の依頼がありました。診察すると結腸憩室炎を疑う所見があり、絶食と点滴治療が必要と判断し、地域の中核病院へ入院を依頼しました。約10日後に退院され、再び診察した際、その患者さんはこう話されました。
「病院の先生は入院中ほとんど診察に来なかった。お腹が痛いと伝えても、お腹を診てくれなかった。」
医学的に見れば、その患者さんは適切な治療を受け、10日ほどで退院できています。Scienceの観点からは何ら問題はありません。しかし患者さんの言葉からは、治療そのものへの不満ではなく、「自分を診てもらえなかった」という寂しさや孤独感が伝わってきました。不満の本質はArtの欠如にあったのだと思います。
もちろん、その病院の医師を批判するつもりはまったくありません。私自身、大病院と診療所の双方で勤務した経験から、限られた時間、多くの患者さん、重症例への対応という厳しい現実を知っています。大病院の社会的使命は、重篤な疾患を見つけ、迅速かつ的確に治療することです。その使命を果たそうとすれば、どうしてもArtに十分な時間を割くことが難しくなる場面があるのは仕方がない部分もあります。
だからこそ、この経験を通して私が考えたのは、Artは知識や技術の不足ではなく、「患者さんが何を感じているかを感じ取る力」の問題なのではないかということです。
そして、私は今なお問い続けています。
診療におけるArtとは、経験を積み、患者さんとの関わりのなかで初めて体得されるものなのでしょうか。それとも、優れた書物や教育を通して言語化し、次の世代へ伝えていくことができるものなのでしょうか。
もし後者が可能であるならば、そのような書物には、単なる診療技術書を超えて、一人の医師の人生を変える力があるのかもしれません。