昨日は、
おばあちゃんのお葬式でした。



今年の12月で99歳。
享年100歳で
命の幕を閉じたおばあちゃん。






お葬式中は、
お葬式の2日前におばあちゃんが亡くなったことを知った自分とはまるで別人かと思うほどに

自分でも思っていた以上に
涙が溢れて止まらなかった。





お通夜で雪解けになり、
お葬式で溢れた。

そんな感覚だった。







おばあちゃんは、
男4人、女1人の5人の子ども達を育て



わたしの父は、次男

どちらかというと
自由な自分のペースで生きる人。






お父さんの兄である
長男のおじちゃんは、


わたしが子どもの頃にもかっこよかったけれど、
今もかっこいいままに歳を重ねていた。





おじちゃんは、独身で、
家を建てて、
おばあちゃんが80代のときに家でおばあちゃんを見てくれるようになった。




おばあちゃんを見るために、
自分の仕事を辞めて。





わたしは、父方のおじいちゃんを知らない。




振り返れば、
長男のおじちゃんが、
みんなにとっての頼れる父のような存在であったように思う。
それは、おばあちゃんにとっても。






そこまでして、
父と同じ兄弟なのに、
おじちゃんがしてくれること



どこか、
孫であるわたしにも
申し訳なさ
後ろめたさがあった。


もちろん、有り難さも。




その気持ちが、
なおさら、わたしが結婚してからの10年ほど
おばあちゃんやおじちゃんに会いに行くことを遠ざけた。








4年ほど前、
家で転び、骨折したおばあちゃんは、
もともとあった認知症が更に進み


老人ホームに行くことになった。







わたしは、
お通夜の時まで、
どこの老人ホームかも知らなかった。




薄情な孫だったと思う。






その老人ホームは、
奇しくも
わたしのお仕事の担当するお客さまの老人ホームで


お通夜のあと、
お客さまに、
生前お世話になっていた感謝の気持ちを伝えた。









わたしにとって、
このタイミングが
本当に久しぶりの集まりだったけれど





兄弟5人
なんというか
それぞれに性格は違うけれど



揃うと仲が良くて
賑やかで

お互いのことを話しながら
笑い合う




ずっと
食べたり
しゃべったり





あぁ、いいなぁ。
羨ましいなぁ。と
どこかでそんな感覚を覚えた。







三男のおじちゃんは、
県外で働いていて、
会ったのは
ほぼ初めましてくらい。




おばちゃんは、
兄弟の中で唯一の女性なのもあり、
ユーモアさとシニカルさを兼ね合わせながら
わたしの職場にも来てくれたりもした。


田舎に嫁ぎ、
亭主関白の旦那さんの元で、
よく頑張っていた。
その旦那さんも、去年亡くなり、ようやく自分の時間を謳歌しているようだった。






1番末っ子のにいちゃんは、
前回のブログに少し触れたけれど

長男のおじちゃんが強くて包容力のある優しさを持つ人ならば、
にいちゃんは優しくやわらかい優しさを持つ人のように感じる。




色んな事情で、
離婚しているにいちゃん。

それから会うことも無かった、親戚の女の子の存在が気になっていたけれど、


昨日、久しぶりに会うことが出来た。

子どもの時以来。


もう、その子も25歳になっていた。




優しく育ったのが伝わるような、
にいちゃんの娘さんだな。って
そう思った。







おばあちゃんのために集まったというか、
おばあちゃんが集めてくれた。
おばあちゃんが会わせてくれた。

そう感じる。








お葬式の最後に、
もう、これで顔を見れるのが最後です。って時に、

みんなで、花や折り紙をおばあちゃんの周りに添えて、
そこに、おじちゃんやおばちゃんが、おばあちゃんに書いた手紙があって


オシャレでもない
白い封筒に


「母ちゃん」


そう書いてあるのを見て
ぐっときた。






60代、70代になっても、
「母ちゃん」と

母を求める魂は無邪気な子どものようで




惜しみなく愛をそそぎ
いつもたくさんのご飯を作り
たくさん喋り
笑って笑って
どんなときも元気でいてくれた

母への感謝が
わたしにまで伝わってきた






棺の蓋を閉めるとき
隣におばちゃんが居て


お互い
嗚咽をこらえながら蓋を閉めた。





「もう、会えないんだね。
一緒に墓参りに行こうね」

おばちゃんが、そう言った。








遺骨は、
喉仏がもう見当たらなくて

それほどに、
骨も体も
最期まで頑張り全うし

生ききったんだな、って
そう思った。







ばあちゃん、


愛情深く
惜しみなく愛を注ぎ


そして、子ども達に
周りの人に愛された生涯だったね。





わたしの記憶の中のばあちゃんは、
明るく元気なばあちゃんが思い起こされます。




後悔は、
生前、わたしの子ども達を
ばあちゃんにほとんど会わせて居なかったこと。




息子が、
お通夜で初めましてだったと言っていたこと。





薄情な孫で、ごめんなさい。






ばあちゃんからもらったもの
繋いでくれたものは、
わたしの命に残っています。




返せなかったけれど、
それでも、たくさん愛してくれて
ただただ愛してくれて
ありがとう。





わたしも、
おばあちゃんから受け継いだものを
繋いでいくよ。






長い間、本当にお疲れ様。
そして、ありがとう。


ゆっくりしてね。