それは、
4月1日のことだった。



3月いっぱいで、
会社の決算月が終わり



昇格してからの1月から3月まで
お店の環境づくりに尽力して
この命で駆け抜けた。






4月1日は、ありがたいことに、
お休みをいただいていて。




ただ、母から
その日に子ども達の新学期に必要なものを買いに行こう!と言われていたから、


朝のうちに洗濯物を回さないとな。と
洗濯かごを見た瞬間に







分かってた。
分かってた。


疲れてて
2日、いや3日は
洗濯物を回して無かったから、
分かってはいた。





だけど、
なんだろう。


溜まった洗濯物を見て、
わたしは叫び出したくなった。





たったこれだけのこと。と言えば、たったこれだけのこと。
だけど、なにかがぶわっと溢れて、プツンとなった。






なんで!
なんで!

なんで!!


なんで、わたしばっかり!!!



あなたも昨日休みだったのに、
なんで!なんで!


こうやって家事はわたしがやらないと溜まっていって!!



なんで!
なんで!!!


なんで!!!!




なんで!!!!



なんで!!!!






自分でも一気に感情が込み上げて、

涙が溢れて
叫びながら、ソファーを叩いた。





怒る。そして、物をドン!っとする
それは、わたし自身が旦那さんに嫌悪感を抱いてた姿そのものでもあった。






お仕事を一生懸命頑張れば、
家事が追いつかなくもなる。





平気でこなせるときもあれば




なんだろう、
なんでわたしばっかりが!って気持ちになるときもある。








そんな中、

一昨日、洗濯物の干し方のことで突っ込まれ、
(これは夫)



昨日は、
作ったご飯に「それ飽きた。それなら食べない」と言われ
(これは息子)





「だったら、食べるなぁぁぁ!ムキームキー


と、ご近所に響いたであろうくらい腹の底から叫んだ。











これは、
旦那さんにもやってもらうようにお願いしましょう!とか


自分だけでやるのを辞めましょう!とか


ご飯、家事、やりたくないならやらなくてOK!とか

そう持って行きたいわけじゃなくって
そう言いたいわけじゃなくって







あ、なんか、
わたしがわたしを抑圧していた部分があったのかも。と

そう気がついた。






そして、
これぞ、わたしの本領発揮ではないか?と
そう思った。






この流れで、DIR EN GREYのラナンキュラス聴きたくなった。
京さんの「叫び生きろ   わたしは生きてる」が聴きたくて。









わたしの本領発揮。とは、
実際に人に叫び散らす。という意味じゃなくって







光も闇も
この命に抱き合わせること







やっぱりね、わたしは
どんな風に進もうが
どう拡大しようが


闇って無くならないし
消えない



そして、
無くさなくっていい
消さなくていい



そうも思う。





表に見えるものが、
光の部分が強いかもしれなくても






もがく闇の部分を抱きしめ生きる
その歳月は
奪われることも
消えることもない
深みとなる
滲む色となる









先週、
お風呂の中で久しぶりにムーラン・ルージュの歌が歌いたくなって、

そこから久しぶりに見てたんだ






そこから伝わる振動は、


わたしの中で大切にする

愛と芸術

を呼び覚ました。




それと同時に、
未消化の願いも。













自分の中の闇。


それは、
人を攻撃するものではない
人に向けるものではない






ただ
自分へ還る自分に向かう愛




ただ   そこにあって

それもわたしの一部
それもわたしの欠片




その存在を深く感じたとき
それがわたしと溶けたとき

わたしを包み導く愛だったと知る






それは
鮮やかな生命力を帯びて
生きる力になる








お仕事でも、
セッションでも、

わたしがやりたいこと。




ますます、あ、これだ。と
そう思った。







それが、世の中との擦り合わせがしずらくとも、
時に生きづらくとも。




自分の中にある大切なものは、
捨てなくていい。
消さなくていい。


それをわたしの命で体現し続ける。






それが、わたしだけのことじゃなく、
声となる
言葉となる
力強さとなる。