このブログを書いた日、


入ろうかどうか迷っていた
Toshiyaさん個人のutakata 


に入会した。




これは、
去年の5月から始まった
月額制のもの。




backnumberは
購入すれば見られて
始まりの月の
utakata vol.0のみ
無料開放されておりました。


なのでそちらだけ、一部載せさせていただきます🙏







25年。


そう、25年前です。
わたしがDIR EN GREYを知ったのも。







ちょうど、今日
日付が変わったタイミングで


1999年1月20日に出たメジャーデビューシングルから25年経ち
再構築してリリースするものを
YouTubeにアップしてくれていた。







25年前の1月。

中学3年生の冬。




中学2年生の頃から、
バンドの音楽が好きになったわたしは、
いろんなアーティストの音楽に触れるのが好きだった。





DIR EN GREYは、
その中でも
メジャーデビューシングルが3枚同時リリースと

華やかなメジャーデビューだったと思う。






だけど、
わたしが、
本当に本当にほんとうに
好きになっていくのは、
もう少し後。





高校2年生の秋に
DIR EN GREYが鹿児島にライブに来てくれて
観に行ったとき。





真ん中で歌う
京さんの表現に圧巻だった。




そこから、
DIR EN GREYの曲は
聴き続けた。





メジャーデビューしてから
4枚目のアルバム
そして5枚目のアルバム
それが好きすぎて
ここがわたしにとっても原点となったように思う。


4枚目のアルバム。VULGAR


5枚目のアルバム。Withering to death.






大学2年生の秋。
そのわたしの原点ともなる4枚目のアルバムのツアーは、
わたしに言葉にならない衝撃を与えた。





大学に入ってからは特に、
ライブのために県外まで行き、好きだと思ういろんなバンドやアーティストのライブを見て来た。





だけど、
体や自分の深部に入るような音楽と
何より、京さんの凄まじいほど進化した表現力に
わたしは胸を抉られるほどの衝撃だった。
全身全霊という言葉すら凌駕するようなエネルギーと表現。



息を飲む。
目が離せない。とは
まさにこのことだった。







人の持つ痛みを表現する。

それは決して明るい表現では無い。



それでも、
だからこそ、
わたしは、そこに希望をみた。

 

多感な時期の生きづらさを抱え
もがいてでも
声を押し殺して叫んででも
胸を掻きむしる様な思いの中でも
わたしの中にある全てと「生きていく」眼差しをもらった。





わたしの心を
命を
感性を

京さんの表現に
DIR EN GREYの音楽に
繋いでもらった。




細胞ごと
どんなわたしも余すことなく。









けれど、


社会人になり
今の仕事が始まったら


いや、その少し前から
わたしの生活から音楽が消えていった



音の無い生活を生き、
恋と仕事に生きた。






そして、
妊娠・出産を機に、
また好きを思い出す。




音楽って
心や感性に触れるものだから、
好きでい続けようと思ってコントロール出来るものでも無くて






だけどまた
必要なときに
心に
感性に
触れるのだと思う







わたしの生涯で、
誰のライブに一番行きましたか?と聞かれたら



DIR EN GREYのライブだと
すぐに答えられる。








25年。

この間で、
身近に
ファンだという人に出会ったことは


わたしの片手で足りるくらい。
3本の指でも、余るくらい。





それでも、


身近には居なくとも

ライブに1人で足を運ぼうとも





今日公開されたYouTubeのコメント欄を見れば

同じ想いなのがわかる。






それぞれの25年があったことを
その中でDIR EN GREYの表現に人生の喜びが深まったことを
生きるチカラをもらってきたことを

5人の表現を愛することを
リスペクトを


感じる。




言葉にしてくださり、ありがとうございます。と思う。













いろんな状況や
ライブスタイルが変われば

関わり方は変化する。





ライブも
行けるところに全部行けるだけ行く。と
今はそんなスタイルではなくても


ひとつひとつを
選び
大切にすることは出来る。










わたしの生涯が幕を閉じる時、
叶うならば、DIR EN GREYの曲をこの耳で聴いて、
体で聴いて
この生を終わりたい。




いつも、そう思う。





聴けなくても、
きっと、わたしの中の細胞が
音源を
記憶を再生し



わたしの中で
音を奏でるのだろう
声を響かせるのだろう。








表現を続けてくれること

新たな曲を生み出し続けてくれること



当たり前なことでは無い
奇跡のようなこと




核にあるものを
言葉にすると陳腐になるけれど




その瞬間の
その日の命の
今の全てで表現して

表現し続けた
生き様そのものが


深く
深く



揺るぎ無い
言葉以上に体に心に振動し、命に届く。





深く

深く

真ん中に

核に。








その核は、


わたしの
心の
感性の
表現の
命の


生命線でもある。






そして、  
それは

誰にも
何にも
奪われることのない場所にある。









わたしの体の何かを失ったとしても
わたしの持ち物の何かを失ったとしても

わたしの体に流れたものは
奪われることは無い。





いつだって、
生きてきたこの身ひとつあれば、
わたしにはじゅうぶんなのだ。