名付けようのない踊りーダンサー田中泯 を見てきた。

 

全く書ける気がしないけどそれでも書いてみようと思った。

 

そもそも、見に行くかどうかもけっこう迷った。

 

絶対に落ち込んでしまいそうだと思った。

 

あれから20年以上が経ち、のうのうとツラツラと表面的に日常生活を送っている私に、泯さんからつきつけられるものが、怖かったからだ。

 

だけど、そういう意味では杞憂に終わった。

 

彼はただ、彼の世界に生きて居り、なにも寄せ付けなかった。

 

スクリーンにいたのは、泯さんだった。(当たり前だが)

 

泯さん。

 

家や畑、道路になだれかかる竹までが見覚えのある風景で、とても懐かしかった。

 

初めて白州にいった時も、猫がいっぱいで、夜布団のなかに潜り込んできて、喧嘩を始めたり爪をたてたりするので、ちっとも眠れなかったことも思い出して笑えた。

 

 

映像、音、こども時代を表すアニメーションも素晴らしかった。映画館で見るのをお薦めしたい。

 

泯さんのおどりも、生き方も、相変わらず、やっぱりすごかった。

 

激しい・・・。激しい、というか、なんというか。言葉が見つからない。

 

けど、やっぱりある意味激しい。

 

 

ここまでガンとして濁流の中に踏ん張って立ち続ける大人を知らない。

 

こんなに至高の生き方をしている大人を他に誰も知らない。

 

(身体を持ってこの地球にうまれたということをこんなに楽しんでいる大人がいるだろうか)

 

カッコよさ、のレベルが段違いすぎる。

 

みんなが好きになり憧れても、誰もが大事にしたいと尊重してヅカヅカと近寄れない。

 

積み上げてきた、生活や、日々の選択や、からだの感覚や、知識や・・・

 

そういったものの集積が、膨大で莫大な違いを、他のアーティストとの間に生み出している。

 

だれも真似できない。

 

ただ、そう在り、そう生きる泯さんに触れた途端、やはり「私はどう思うか、感じるか、どうするか、どう生きるか」がやっぱり

 

うまれはじめてしまった。

 

映画を見る前と後でもう何かが違ってしまっている。

 

そう、本当に今の私たちは、便利で、経済が最優先の社会の恩恵にひょいひょいっと乗っかってしまって、生きている。

 

からだの感覚を差し置いて、ショートカットして生きることは、泯さんの言葉を借りて言えば本当にたくさんの「損」をしているのかもしれない。

 

 

踊りは 言葉より 先にあったー

 

という件からではないけれど

 

先に、何があるのか という問題。

 

自分が先にあって、体が先にあって、その上で自分は何を必要としているのか、

 

よりも、先に売り込まれる商品、売り込まれる物、売り込まれるサービスに、私たちはかなりの部分、先を越されて乗っ取られている。その一部にすらなっている。

 

それをただいらない、と押しのけるだけでも相当な、労力と、頑固さを必要とするまでになってしまっているのかもしれない。

 

 

 

それからまた、世の中にあるいろんな速度に、合わせて行ってもいいのかもしれない、とも思った。

 

たっくさんの、いろんなレイヤーが重なっている。

 

その中のいろんな速度にチューニングして行き来することは、とても自由なことなのかもしれない。と思った。

 

 

やはり泯さんが投げかけてくるものは、本質的で、デカい。

 

※2月5日、加筆

 

未完