前に、少しだけ介護施設で働いていたことがある。

 

高齢者の運動機能を維持、回復するためのリハビリデイサービスだ。

 

身体の機能については、ひとそれぞれかなりの差があった。

 

まだまだなんとか自分の力で歩ける人で、前向きに「運動しよう!」という意欲がある方もいれば、

 

いつもいつも体のどこかに痛みを抱えていて、家族に言われて仕方なく来ているけど、本当は運動なんかしたくない方もいた。

 

自分では歩くことができず、4点の杖をついて少しづつ少しづつ前進する方や支えてあげてやっと歩ける方もいた。

 

車椅子の方もいた。

 

私の仕事は運動の指導と補助だったが、運動の合間や休憩時間に話し相手になることももちろんあった。

 

認知症が進んでいる方も多かった。

 

ある時ものすごく、男気の強い、職人気質の方が来所した。

 

その方は、浅草の歌舞伎の舞台を、「私が作ったのだ、私は大工だった」と、初日に私に話してくれた。

 

とても誇り高い仕事だったのだと思う。

 

私は単純に純粋に、「すごいですね!」と目を見開いて感心した。

 

それから毎回、その人が来るたびに、「あの舞台は私が作ったのだ!」と話されていた。

 

(毎回私に言ったことを忘れてしまうので、毎回言っていた)

 

ある日私が他の先輩職員に、「○○さん、浅草の歌舞伎舞台作ったなんて、すごいですよね」と話したら、

 

「ああ、もうそればっか言ってるから、相手しなくていいよ。毎日言ってる」と言われてしまった。

 

とてもショックだった。

 

その人は、自分が大工だった時、舞台を作り上げたことをとても誇りに思っていて、それを私たちに話してくれた。

 

私は、ただ単純に、そういう東京の名所を作り上げたひとに会えたことがすごいと思ったし、人の歴史を見たようで少し興奮していた。

 

別に彼だけじゃなくて、他の利用者さんだって、何をしてきた人なのか、どんな仕事をしてきた人なのか、

 

人それぞれに人生の歴史があり、人生の大先輩であり、この平和で豊かな日本を作って今の私たちに渡してくれた世代だ。

 

 

興味をもって、会話をする「必要がない」という施設の他の職員の雰囲気は、とてもやりづらかった。

 

高齢者の方達の自己肯定感が極端に低く、「申し訳ないねぇ」「こんな老人早くイッちまったほうがいいのに、なかなかいけんのだ」と拗ねている人も多かった。

 

あまりに利用者さんがそういうので、ある時

 

「えー、でも今こんなに便利で豊かに暮らせるのはこの日本を作ってきてくれた皆さんのおかげですよ〜」と口をついて出てしまった。

 

一瞬、場の空気が固まったのがわかった。

 

みんな目が開いてびっくりしてしまっていた。

 

私もちょっと、「まずいことを言った?恥ずかしい、、、」と思ってしまった。

 

何を言ってるんだ、この子、やばい奴か、何が狙いだ?いい人と思われたいのか?と思われたかもしれない。笑

 

単純でバカすぎ、と思われたかもしれない。

 

でも正直な気持ちだった。

 

そう言うことを言って、なんかおかしい雰囲気になってしまうことが、ちょっと悲しい。

 

 

たしかに、怒りっぽい人や、排泄がうまくできなくて施設を汚してしまう場面も何度もあったし、一瞬たりとも気を抜くと転倒されてしまったりする危険のある、大変な仕事だった。

 

でも私がなにより苦手だったのは職員の雰囲気だった。辞めたきっかけは夫の転勤だったが、正直その雰囲気の中で働くのがストレスだったので、ひとまずそこは辞められてよかったと思う。

 

そういう介護施設での勤務経験は2ヶ所あるが、もうひとつはそんなに悪くなかった。

 

私は介護の現場に長くいるわけでも重度の認知症患者を介護しているわけでもないし、そんな人間が介護についてうんぬん語るなと言われてしまえば終わりだけど、私の視点というものは私が生きていて感じている証だから、黙っていた方が無難かもしれないが今思うことを書いてみようと思った。

 

最近、たまたまyoutubeでこんな動画を見た。

 

 

ユマニチュード=Humanitide(Human,人間らしく関わる)だ。

 

それまで怒って世話をされることを拒否していた男性が、ユマニチュードで対面したとたんまるで魔術にかかったように素直に受け入れている。

 

コメント欄には、「これが理想ですが現実はそんなに甘くない」「無理」「人手が足りず、時間もない、こんなことしてられる余裕がない」といった介護職の方からのコメントが目立つ。

 

たしかに、介護の現場の問題が大きいのだと思う。

 

それは簡単なことではないのは素人目に見てもわかる。

 

一方で、「感動しました」「涙が出た」「おじいちゃんが生きていた時にこれを知っていれば・・・」という声も。

 

子育ても、介護も、似ていると思う。

 

私は今子育て真っ最中だけど、こどもも、まだ喋れなくても、意思も意欲もあるし、この世界を捉えようと全身で感じて生きている。

 

モンテッソーリ教育に代表されるような、子どもを1人の人間として尊重して育てていくようなやり方もとても共感ができる。

 

ただし、こどものように可愛くても、自分に余裕がなかったり、仕事しながらワンオペ育児の時は、理想の子育てなんてものからはほど遠く、

 

怒ったり怒鳴ったり罪悪感を感じさせるような言葉を使ってしまったり、そのあと自己嫌悪に陥ったりと、

 

全く理想のようにはいかない日々も経験した。

 

いまだっていつもうまくいくわけではない。

 

 

でも、本当は、どうしたいのか?を考えることは大事だと思う。

 

 

それは一人一人が考えて、感じて、次の行動に移すことでしか、変わらないと思う。

 

まずは心が悲痛な叫びをあげているのなら自分自身の声を聞いてあげればいいと思う。

 

思ってはいけないことなんてなく、何を思っていいし、その通りにはならなくても、

 

本当にはどうしたいと思っているか、を知ること(NVCでいうニーズにつながること)は状況を変える糸口となる。

 

 

私はもうあのような日々には戻りたくない。(苛々してこどもに強く当たってしまう日々)

 

目の前の子どもを態度でも、言葉でも、愛でて寄り添っていきたい。

 

大変なことはたくさんあるけれど、そういう状態にほんとうは持っていきたいんだということを自分がわかっていると、

 

間違えても戻れると思う。