昔からよくあることなのですが、

 

対立する2つのグループの間にたって、身動きが取れなくなってしまうことがあります。

 

AさんとBさんが対立している。

 

AさんはBさんの、ここをこうしてほしい!ということを私に相談してくる。

 

BさんはAさんの、ここをこうして欲しい!ということを私に相談してくる。

 

会社でも、PTAでも、人が集まればいつだってこういう問題は、おきますよね。

 

 

私は、Aさんのいうこともわかる。

 

だからAさんの話を聞いているときは、Aさんに共感します。

 

Bさんのいうこともわかる。

 

だから、Bさんの話を聞いているときは、Bさんに共感します。

 

それは、どちらも、正直な気持ちなのです。

 

私の中ではそうでも、立場上、危うさを感じたり、あれ?私はどうしたいんだっけ?っていうことがわからなくなる。

 

板挟みになって、いづらくなり、最終的にどうでもよくなる。

 

というようなことがよく起きます。

 

 

今わかることは、相手への共感 「こういう気持ちだったんですね」というところまでは他人の私ができても、

 

その先の相手へのリクエスト(どうしてほしいのか)は、結局本人が自分とつながって、相手に伝えるしか、できないんだよなぁっていうこと。

 

周囲がやんやいっても、なんの解決にもつながらないからです。

 

 

 

私たちのニーズは、普遍的なので、ひとは、ひとのニーズを満たしたい

 

という欲求が、もともと備わっています。(と信じたい)

 

だから私はAさんの気持ちに寄り添う、Bさんの気持ちに寄り添う

 

共感することはできても

 

相手がいかに間違っているか、についての意見を助長することは、また別の話です。

 

 

そういう立場になったとき、今度は自分で自分のニーズに耳を傾けることも必要となってきます。

 

人の話を聞きすぎているとき、「休息」のニーズを満たしたくなったり、

 

相手がいかに間違っているかを相手が話し始めたとき、自分もそれに加担すると「安全」のニーズが脅かされたり・・・

 

自分の保身(安全のニーズを満たす)は必要なこととして浮かび上がってきます。

 

こういうことをしてると八方美人と思われるかもしれない。(それもまた安全のニーズが脅かされるのを感じる:笑)

 

人と人が集まったとき、

 

わたしたちは「いかに相手が間違っているか」で裁くような言葉を使いがちだけれど、

 

主語を自分に置き換えて、「私は○○が欲しかった」といつでも言えるようになりたい。

 

ひとは、相手の心の奥にある本当の気持ちに触れたとき、きっと感触が違うはずだから。

 

 

 

なんだか今日はうまく書けませんでした。

 

語彙力・文章力を磨きたい。