ここまで長らくお産の経験について書いてきました。

 

その中で、助産院での丁寧なお産と、普通の産院でのちょっと残念な気持ちの残る出産とを比較してきました。

 

もう最後のお産からは2年経っていて、その時の気持ちは、今は整理がついています。

 

結局、私はお産に何を求めていたんだろう?

 

何を、大切にしたかったんだろう・・・

 

そんなことを振り返ってみる時、思い当たるのは

 

ああ、私は、出産という命の誕生の瞬間、その神秘的であまりにも尊いことが起こっているという事実を、

 

事細かに「目撃」したかったんだなぁ。

 

と思います。

 

全ての過程において、今、何が起こっているのか、を「把握」し、「感じ」、「関わり」、「堪能」したかったのだと。

 

そして夫や助産師さんともその瞬間の喜びを「共有」「共感」したかった。

 

つまり、楽しみたかったのです。

 

そのために、

 

私が必要としていたことはそれ相応の「理解」であり「サポート」でした。

 

助産院にはそもそもの大前提としてそれがありました。言葉で語られたものもありましたが、暗黙の了解のような部分も大きかったと思います。

 

なにを大事にしているか、が、共通していたのです。

 

おおきな病院(産婦人科)でも、理解や優しさ、サポートがなかったわけでは決してありませんが、

 

言葉になる以前のレベルで、その質は全然違ったものでした。

 

 

 

これは、今になってやっと「言葉」として表すことができ、処理することができるようになったけれど、

 

しばらくのあいだなんともいえない寂しさや残念さを、モヤモヤとした形のまま抱えていました。

 

それを、感じ、表現できるようになったきっかけとして、NVC〜Non Violent Communication〜非暴力コミュニケーション

 

との出会いがありました。

 

 

今(や、過去)そのとき、自分は、何を感じ、何を必要としていたのか?を見つめ、発見することで癒し、さらにはそこから、人生をよりよいものにするための、「いのちの言葉」を紡ぎ出すような方法です。

 

 

今の私の重要な学びの一つであり、大切に思っていることの一つです。

 

毎日、生きているだけでもいろんなことがありますよね。

 

そして内面が、動きます。

 

でもいちいちいつも深く、感じているかと言うと、そうではないと思います。

 

普段なんかもっとそうだし、わたしも出産というおおきな局面のときでさえ

 

「これが普通だから」「助産院を選ばなかったのは私だから」「産院側と喧嘩したくないから」何も、言いませんでした。

 

飲み込んだのです。

 

でも、私の内面には確かにいきづくものがあったのです。

 

それは、感じてもいいことなのです。いいというより当たりまえのことです。

 

どのように外側に出すかどうかはさておき(私のように2年もたってこのブログに書くのも一つの出し方)、です。

 

 

でも、なにも感じなかったら、死んでいるのと同じです。

 

日々、いろんなことを感じる、それこそが生きている証です。

 

 

次回はNVCについて、より掘り下げてみたいと思います。