その、ミュージカルのための練習で、ガーナ人の先生から太鼓(ジャンベ)を習うようになり、
私は、自他共に認めるほどジャンベが「好き」になり、そしてまた「合って」いました。
それまで本当に、パッとしなかったのが、
ジャンベを叩きはじめたとたん、目に見えるほどエネルギーが回りはじめて、生き生きとしましたのです。
どちらかと言うと、舞踏というのは、ストイックで、突き詰めて追い込んでいく作業が多くどうしてもサディスティックで暗いイメージから逃れられませんでした。
だからこそ、美しいものがある
だからこそ洗練される、というのはもう近くでずっと見ているから痛いほどわかる(し、大好きなの!)のですが、
どうしても自分の生まれ持った性分に合っていなかったのだと思います。
めちゃくちゃ憧れるけど、どうしようもなく、向いてないものってありますよね。
まさにそれ、でした。
ところがジャンベのなんとなく明るいイメージ、乾いた音、ハッピーな循環を生むようなあたたかさ(のちにわかることですが、それがまたたまたまガーナ人の先生だったから余計にそうだったのですが)が、とても私の生まれつきの性格みたいなものに合っていて、もっとやりたい!もっと知りたい!
とどハマりしてしまいました。
いつもいつも、車の助手席にジャンベをのせて、海に行って、浜で太鼓を叩く、という生活が始まりました。(彼氏とかいないですからね、相棒はジャンベでした)
舞台では、もちろん堀川さんに振り付けもしてもらい、踊り、表現もし、熊になったりもしました。もともと苦手だった「台詞」なんかもありましたが、なんとか覚えて全力で挑みました。
演者としてもすごく楽しかったし、成功裏に終わって、それからプロデューサーの方からジャンベが出演者に贈られ、ついにその太鼓は〝私のもの〟になったのでした。
ある時ガーナ人の先生が、福島県でフェスがあり、自分もそこで演奏するから聞きに来ないか、と誘ってもらいました。
人里も離れに離れた、電気やガスや水道も無いような、もちろんインターネットもないようなところで自給自足の暮らしている人のいる、獏原人村というところで、毎年行われている知る人ぞ知る満月祭、というお祭りでした。
伝えられた住所に向かって、一人で運転して向かったものの、その村への入り口さえ本当に見落としてしまうほどの小さな看板ひとつで、めちゃくちゃ不安になりながらも、またあの「音」が聴きたい!その一心でその場所に辿り着きました。
またそこには、ものすごい〝浮世離れ〟した 笑
人たちがテントを張って、集まっていました。
社会の枠組みの中で、消費生活をしている普通の人間は、まるで見当たらないようでした。
日焼けした人やドレッドヘアの人々が、五右衛門風呂に、世界各国を旅してきた人のお土産的な出店で、自然素材でできたたくさんの小物や自然食品などを売ったり買ったり交換したりしていて、ものすごくワクワクしたのを覚えています。
そのお祭りの中でステージイベントがあり、ガーナ人の先生が太鼓を叩いていました。
お客さんと皆で一緒になって踊りました。
知らないひとばかりなのに、昔から知っているかのように、同じ音楽でつながりました。
そして一方ではワークショップも行われていて、
ギニアで一年の半分を生活しジャンベとアフリカンダンスを学んでいた静岡のグループの皆さんが、ワークショップをしていました。
クレアさんという、エキゾチックなとても美しい先生がククというダンスを教えていて、私はそのワークショップに参加して「なんだこれは!!!!!!」とものすごい衝撃を受けました。
躍動感に満ち満ちていて、私の身体の細胞が隅々まで喜んでいる!というのがわかりました。
これはもっと踊りたい!
なに?どこで習えるの?と思い、ワークショップが終わった後にクレアさんにかけよりいろんな話を聞きました。
彼女は世界中を旅していて、とても美しいアフガニスタンのビーズの刺繍の財布なども販売していたので、そのドンピシャで好きな趣味の財布を買ったりしながら話を聞き、連絡先も教えてもらいました。
ただ、彼女はまたすぐにギニアに行ってしまい
そう簡単に、日本でアフリカンダンスをすぐには習えそうには、ありませんでした。
でも、とにかく私はその後も情報を集め、当時まだ少なかったアフリカ人の開催するアフリカンダンスワークショップと聞けば、どこへでも出かけて習いにいきました。
山梨へ10時間かけて、アマラカマラ氏、アブーケンプーカマラ氏、エピゾバングーラ氏のワークショップ合宿に参加したりもしました。
東京にもいろんなワークショップを受けたり、グループの発表会を見に行ったり、もしました。
とても、失礼なことなのですが、この頃から私のなかで悶々とした思いがつのり、舞踏の見習いからは少しずつ心が離れてしまいました。
自分から、やりたいと言って学ばせてもらっていたのにも関わらず、ちょっとしたことが原因で、しっかりとしたお礼や分をわきまえた引き際とは言えないわかれ方を堀川さんとはしてしまい、若くて未熟だったとはいえその後もしばらく、その事は心の中でずっとひっかかり、一日たりとも忘れることができずにいました。
心からの、感謝と謝罪の言葉をしっかりと伝えることができたのは、実はつい、最近のことです。