久しぶりの、投稿となってしまいました。
気を抜くとあっという間に日にちが経ってしまいます。
さて、18歳で田中泯さんのワークショップ合宿に参加しました。
そして、厳しい山梨の冬の山を降りて、家に帰りました。
そこで、私の身体に起きたことは、なんと…
「身体が寂しくて泣く」のです!
どう言うことかと言うと、
合宿中の生活は、ほぼ毎日、自分と他人の身体に触れ、自然の中で、自給自足の生活をしていたので、
感覚がかなり、研ぎ澄まされていたのだと思います。
それを使うところがない、もどかしさ。
例えば、火ひとつとってみても、
ガスは使わず、薪を燃やしてご飯を作ったりお風呂を沸かしたりしていた、その、火がありません。
火を燃やして熱を発生させるための全ての行動(まず、山に薪をとりにいって、乾燥させるための小屋に持っていく、そこから乾いた薪を何本か部屋に運んで、火をつける)には、たくさんの皮膚の感覚を伴います。
山に入って足の裏で、バキバキ小枝を踏む感覚
がさがさした、木の表面に触れること
燃やすときの、熱を感じること
すごく寒い、ところから、火が大きくなり身体が次第にあたたまること
それが…
ただのプラスチックのスイッチひとつ、カチャッとひねるだけで火がつくのです。
これが、寂しくて寂しくて。
電気も、スイッチひとつで、つきますよね 笑
これ、普通です。
普通の家庭で普通にどこでも、起きていることです。
でもそれって、身体にとって、ものすごい
寂しくて物足りないというか、
あの大きな火と熱、
自然のサイクル、
そういう一連の流れから、めちゃくちゃ小さく細切れに、安全に、簡単に、便利に、
各家庭に小分けされたガスで着く小さな火
を見た時に、(大いなる自然からの)隔離感、乖離感で、めちゃくちゃ寂しくて泣いたのでした。
そう、新潟の堀川さんも、言っていました。
「便利な生活は私達の身体の感覚を愚鈍にする」と。
ほんとうに、私はこの時、身体感覚が寂しすぎて困りました。
全身で、そのことを、体感していました。
そのあとまだ時間はかかりますが、
私がアフリカへ行ってしまうのも、当然のことですよね 笑
つづく