「会長!」
宗吾の姿を見つけると急いで駆け寄り手首を縛ってあった医療用のゴムチューブをナイフで切った。
「いったいどうされたというのですか。こんな…」
「飼い犬に噛まれてしまった。子犬だと思って見くびっていたようだ。どうしてくれよう…」
赤い跡が残った手首を摩りながら宗吾が静かに呟いた。
「…それは、どういう…?」
「下に行き翔を探せ。すぐに空港に向かう」
質問には答えずに背を向ける。その後姿は怒りの焔に縁取られていて、部下の男はそれ以上何も聞けなかった。
秋空の下、着陸した小型のヘリコプターは黒い機体を静かに震わせていた。緩く回転する細長いプロペラが、コンクリートに影を落としている。影の先端がぎりぎり掛かるところに二人はいた。智が叫んでいる。腕の中にぐったりとした和がいる。宗吾がゆっくりと近づく。
「…形勢逆転のようだな」
立ち上がろうとした智の肩を、背後にいた男が蹴り飛ばす。和の体が固いコンクリートに転がり、ざらついた白い地面に赤い血が染みた。
「フゥ!」
差し伸ばした智の両手は和に届く前に、掴まれ、後ろ手に縛られた。
「離してやれ、今生の別れだ」
宗吾が薄笑いを浮かべ命じる。智は和ににじり寄った。
「フゥ!、フゥ!」
名前を呼ぶが、その体は全く動かない。
「シナリオとは逆になってしまったな」
「くそーっ!」
よろよろと立ちあがり、宗吾に走り寄ろうとしたが、背後から襟首を掴まれ引きずり倒された。宗吾がゆっくりと近づく。
「どうだ、触れてみろ。まだ生きている。温かい筈だ」
智の背後に横たわる和を見下しながら愉快そうに言う。智は、和に向けられるその残酷な視線を何とか遮ろうと、不自由な体でもがいた。
「見るな! そんな目でフゥを見るな!」
涙混じりに叫ぶ。
「…目は光を失くし、胸の鼓動が止み、温かい体は徐々に冷たくなる。頬は硬直し、全てが、ただの肉塊になり果てる…」
「やめろ…」
呻く事しか出来ない。
「辛いか? 当然だ。大切な相手の臨終だ。…25年前と同じだ。仕様がない。全てその男の父親がやらかした事だ」
「…そんな昔のこと、今のフゥには関係ない!」
「いや、これ程の悲しみ、苦しみ、憎しみはいくら時が過ぎようと、消えはしない。時間が経てば経つほど濾過され、凝縮され、鉛のようにこの胸に溜まる…」
智ははっとした。
「俺を死なせるんだろう? フゥに同じ思いを味わわさせるために。だったら、そうしてくれ! 今は、フゥを生かして、そして、改めて俺を殺せばいい。じゃなきゃ、お前の復讐は完結しない。そうだろう?」
必死に懇願する。その無理な理論に宗吾はわざとらしく思案する振りをした。
「ほう、それも一理あるな。復讐は完結しない…か、なるほど」
「…頼む、フゥを、フゥを…」
智は、なりふり構わず額を地面に擦りつけた。
「…分かった」
「本当か?」
さっと顔を上げる。
「ああ、私にも慈悲はある」
宗吾はにやりと笑った。
「一緒に逝かせてやることにしよう」
表情が一変した。般若の眦で智の目を見据える。
「…手を取り合い、互いの死にゆく体を確かめ合うがいい!」
低い声で言い捨てると、さっと踵を返した。硬直した智の耳に宗吾の笑い声だけが残った。
「…ああ…」
智は絶望し、肩を震わせて泣いた。
「…やっと、行ったな…」
背後から小さな声が聞こえた。プロペラの回転音にかき消されそうだが、何とか聞き取れる。
「フゥ…?」
「動くな、悟られる…」
振り返ろうとした智を和は制した。
「フゥ、話せるのか?」
「智が、いつまでも、奴と喋ってるから、もう、ホントに死にそうだよ」
途切れ途切れの声が背中ごしに聞こえる。智は小さく首を振った。
「…もう、だめかもしれない」
「らしくないな、何とかなるさ。そのまま動くな」
縛られた手首に振動を感じた。
「ナイフか?」
和は消えそうな意識の中、智の手首のロープを切ろうとしていた。
「もっと、引っ張って、力が、うまく入らなくて…」
智も、ありったけの力を込めて縛っているロープを引っ張る。ちらりと見上げた時、宗吾が部下に何かを指示しているのが見えた。こちらを見ている。
「フゥ、急げ!」
「わ、分かってる…。もう少しだ」
二人は最後の力を振り絞った。ふいに両手が自由になった。
「…やった。…後は頼んだ、もう、限界だ」
「フゥ!」
カラリとナイフの落ちる音がした。和は今度こそ本当に意識を失った。
「フゥ!」
返事がない。母の白い手の記憶が過ぎる。智の全身に怖気が走った。
(だめだ、俺は二度と大切な物を失くしたくない!)
一刻を争う。間違えれば、取り返しのつかない事になる。でも、考えている閑など無い。
(動け、行くしかない!)
顔を上げ、立ち上がろうとした時、宗吾の背後のドアの中に修の姿が見えた。
(笹川?)
宗吾はまだ気づいてない。修は、すっと銃を構え、ためらいなく発砲した。一瞬自分たちが狙撃されたのかと思った。だが、弾丸は、背後のヘリの燃料タンクを掠めていた。ガソリンが滴り落ちる。発火せぬよう、ただ、金属に穴を空けるために撃ったようだ。銃声で初めて修の存在に気づいた宗吾が、智に背を向けた。
(今だ!)
智は和を抱え、約20メートル右の排気筒まで転がるように走った。モーター音の響く筒の横に和をそっと寝かせる。太もものあたりからの出血はまだ止まっていない。急いで着ていたシャツを脱ぎ、傷に押し当て、和の重みをかけて止血した。
「フゥ、大丈夫か」
声をかけるが、蒼白な顔は動かず、何も答えない。思わず手首を掴んだ。弱々しいが、規則的な動きを感じる。
(もう少し、頑張ってくれ)
祈るような思いで白い手を置くと、神経を集中し相手の動きを待った。
続く。