智から目を逸らさずに椎名は続けた。
「お前の両親は国のある組織に属していた。その組織の職務は極秘裏の内に国の反乱分子、分かり易く言えば、テロリスト達の行動を常に監視し、不穏な動きがあれば速やかに対応する、そういう任務を担っていた」
「…?」
ぽかんとした表情の智を見て椎名は少し考えてから言い直した。
「つまり、お前の両親は悪い奴らを見張るという大事な仕事をしていたというわけだ」
今度は智の表情が反応した。
「それって…、正義の味方っていうこと?」
「ああ、そうだ」
「ヒーロー…なの?」
「…そうだ」
二人ともいつも忙しかったが、その仕事の内容など智は考えた事もなかった。
(正義の味方、ヒーロー…)
潤が聞けば喜ぶだろう。少しだけ明るくなった智の顔を見ながら、椎名は続けた。
「だが、お前も知っているようにヒーローに危険はつきものだ。時には命がけで戦うこともある」
「…でも、必ず最後は勝つよ」
その言葉に、少しの間を置いて椎名は、
「テレビの中ではな…」と呟いた。
智の胸が急に大きな鼓動を打ち始めた。その言葉の意味は何か。
「お前の両親は…」
耳を塞いだ。
「いやだ!聞きたくない!」
「ちゃんと聞くんだ」
「いやだぁ、何も聞かない!」
大声で喚く。椎名がポケットから手を出した。智は、
(怒られる!)
と肩をすくめた。だが、その温かい手は、智の両手をそっと包みこんだ。
「…聞くんだ。そして受け止めろ」
静かな声が耳に届いた。椎名の手に促され耳から手を外す。涙が頬を伝う。椎名は指でそれを拭った。そのまま智の顔を大きな掌で包み込み、自分の方を向かせた。そして、視線を合わせると、
「お前の両親は、死んだ」
とゆっくりと告げた。息が詰まった。
「昨日の夜、自動車事故で。お前は、車が谷底に落ちる前に投げ出され、崖の途中で気を失っていた」
突然、記憶が蘇った。母に起こされ、訳が解らぬまま車に乗り込んだ。両親の尋常ではない様子、夜の高速、車体に走った衝撃、何かが弾けた音、加速する車。あまりの速さに、
「お父さん、スピードを落として! 怖いよ!」
と訴えた。父は何も言わず前だけを見ていた。緊迫した車内。エンジンの音だけが響いていた。後方車が近づいている。ライトで徐々に車内が明るくなる。
「あなた! 後ろ!」
母が悲痛な声で叫ぶ。父は尚もアクセルを踏み込む。肩を抱く母の手に力がこもる。次の瞬間、鼓膜を破くような大きな音、感じた事のない衝撃。
椎名は智の揺れ動く瞳を見ていた。
「車が追っかけてきた。お父さんはものすごいスピードを出してた。お母さんが何か言おうとしてた」
ふいに母の手がぱたりと落ちた映像が頭に浮かんだ。
「…お母さんは? お母さんは、あの時死んじゃったの?」
抑揚のない口調で問いかける。
「お前の母親は、崖を転げ落ちる車から必死の思いでお前と弟を抱いて外に飛び出した。お前がこうして足の骨折だけで済んだのは、母親が体を盾にして守ってくれたからだ」
椎名も、昨夜の現場の様子を思い出していた。智たちを追っていた車を、組織の車が追っていた。前方を走る二台の車のライトがカーブの先に見えた時、数発の銃声がした。ライトが一つ消えた。数秒後、組織の車が現場に着いた時、智たちの車はガードレールを突き破り、崖下に落ちたらしく影も形もなかった。絶望的だと誰もが思った。悲痛な空気が漂う中、諦めきれずに暗い崖を見下ろしていた仲間の一人が叫んだ。
「いる! 誰かいる!」
興奮した様子で崖の下方を指差している。椎名は駆け寄り、ちぎれたガードレールから身を乗り出した。暗闇に目を凝らす。
「何処だ!」
「あの木の根元をよく見ろ」
仲間がライトで照らす。急な斜面の五十メートルほど下に、何か赤く光る物がある。暗闇の中、小さな光が瞬いて、今にも絶えてしまいそうなか細いSOSを送っていた。
椎名がサイドキャビネットの扉を開け、中から何かを取り出した。
「これがお前達を救った」
潤の剣だった。昨夜、智が子供部屋から咄嗟に持ち出した物だ。手に取って見ると、先端は折れ曲がりあちこちがひび割れ、剣の受けた衝撃の強さを物語っていた。
「…潤は? 潤も死んじゃったの?」
ぼんやりと剣を見ながらぽつりと呟く。椎名は、その無表情な顔に、
(心が壊れてしまったか? 耐えられると思ったのは俺の見込み違いか?)
と焦った。
「…いや、死んではいない、だが…」
「うわーっ!」
突然、智が大声を上げた。それは悲鳴のような号泣だった。胸を刺すような辛い悲しみに満ちた声だった。
「うわーっ! お父さん! お母さん! 潤!」
椎名は泣きわめく智を思わず抱きしめた。
「泣けばいい、思いきり泣けばいい」
白衣の袖に染みる温かい涙は椎名の心を強く揺さぶった。こんな類の宣告は医者としていくらでも経験してきた。だが、いつも冷静で私情に流された事など一度もなかった筈だ。
(俺は、この子に昔の自分を重ねているのか?)
椎名は自問をしながら慟哭に揺れる小さな肩を抱いていた。
続く…