2年。
2年前も1年前もその瞬間は車を運転していたけど今年は家で。
今、陸前高田市では「奇跡の一本松」の修復が始まっている。
私が感じていた違和感を少なからず被災地の人で感じている人も中にはいるようだ。
既に枯れた、死んだ木を象徴として残すのは無理矢理にその場に死んだまま立たされている松にもし感情があったらどう思うのだろうか。
でも途方もないくらい強烈な精神的ダメージをうけた被災地の人々にとっては唯一の希望の光というか勇気を与えてくれる存在であるのも事実で。
難病におかされた患者がやっとの思いで見つけたスーパードクターを頼るのと同じ感覚だろうか。
そのスーパードクターがもしいなくなってしまえば患者の心は完全に折れる。
いるだけで心の支えになっている。
そう考えれば1億出して修復するのもありな気もしてくる。
松のDNAは確実に生きている。
個人的にはこちらを大切にしていくべきであると思うけれど。
海岸線では巨大防潮堤の建設計画がなされているらしい。
岩手、宮城、福島の海岸線計370km、高さ5mから12.5m、8000億円分の防潮堤。
この防潮堤が作られないとその後ろのまちづくりが進まないそうだ。
この防潮堤って果たして必要だろうか。
あの津波で学んだことは大きな津波がきても防げるくらいの防潮堤をつくらなければって、そんなことなんだろうか。
まさに安全の国。
極端な話、車は事故が起こって危険だからこの世界から消した方が安全だ。
包丁は殺人に使われる可能性があるからこの世界から消した方が安全だ。
って言ってるのと同じ。
津波に乗り越えられたから次はもっと高く強いものを作らなければ。
これは本当にいいの?
多くの海岸線のまちが港町として栄えて海とともに発展してきたまち。
そこに住む人々は海の景観を見ながら育ってきた人達。
海が彼らの原風景になっていることが多いのではないか。
そんな原風景をぶっ壊してコンクリートの壁でその海を隠していいのか。
津波で学んだことはそんなことなのか。
あの津波で人々は
なめないですぐに避難することの大切さを学んだんじゃないのか。
多くの人が大丈夫だと思って避難しなかった結果がこれじゃないのか。
同時に津波の破壊力の強さを感じたはずだ。
そんな防潮堤ごときじゃ大自然に対抗できるわけないのだ。
自然に人間は勝てない。
自然に対抗してはいけない。
うまくつきあっていくことが大切。
海辺の建物が津波で流されて壊れるのはある意味とても自然なこと。
そこで人が死なないようにするには防潮堤じゃないと思う。
高台の整備とか避難しやすい高台まで一直線につながる広い道路の整備とか津波の力をうまく弱められるように川を枝分かれさせて張り巡らすとか。
海はそのまちの原点だから見えた方がいいし見える方がそのまちの自然な景観。
いくら安全のためとはいえ海岸線をコンクリートの高い城壁のような壁で覆われているまちが本当にいいまちか、美しいまちかっていうのは甚だ疑問である。
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