海の捨児 伊藤整


私は浪の音を守唄にして眠る
騒がしく 絶え間なく
繰り返して語る灰色の年老いた浪
私は涙も涸れた悽愴なその物語りを
つぎつぎに聞かされていて眠ってしまふ。

私は白く崩れる浪の穂を越えて
漂つている捨児だ。
私の眺める空には
赤い夕映雲が流れてゆき
そのあとへ 星くづが一面に撒き散らされる。
ああ この美しい空の下で
海は私を揺り上げ  揺り下げて
休むときもない。

何時私は故郷の村を棄てたのだらう。
あの斜面の草むらに残る宵宮の思ひ出にさよならをしたのだらう。
ああ 私は泣いているな。
莫迦な。
もうどうしたって帰りやうのない
遠いとほい海の上へ来ているのに。

でも今に私は忘れるだらう。
どんな優しい人々が村に居たかも
昔のこひびとは見知らぬ誰かの妻になり
祭の宵には  私の思ひ出を
微笑に光る涙にまぎらせても
私は浪の上を漂っているうちに
その村が本当にあつたか どうかさへ不確かになり
何一つ思ひ出せなくなるだらう。

浪の守唄にうつらうつらと漂った果て
私はいつか異国の若い母親に拾ひ上げられるだらう。
そして何一つ知らない素直な少年に育ち
なぜ祭の笛や燈籠のやうなものが
心の奥にうかび出るのか
どうしても解らずに暮らすだらう。  
   
        (詩集「冬夜」より)