自決や殺害の危機を免れ辛うじて開拓地から都市に辿りついた人々には、麻袋の底をくりぬいて身に纏(まと)う避難民の姿もありました。

運よく貨車を乗り継いで、長春や瀋陽にまで辿り着いた人々もいましたが、収容所の床は剥ぎ取られ、窓ガラスは欠け落ち、吹雪の舞い込む中で飢えと発疹チフスの猛威で死者が続出しました。孤児や婦人がわずかな食料と金銭で中国人に買われていきました。


満洲に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち上述のように8万人を開拓団員が占めます。満洲での民間人犠牲者の数は、東京大空襲(84,000人)や広島への原爆投下(140,000人)、沖縄戦(120,000人)を凌(しの)ぐ人数です。



これほど犠牲者を出した敗戦時の日本軍の満蒙政策とその放棄でしたが、大江志乃夫によれば、関東軍上級将校の自決者の中で満蒙居留民に詫びる遺書をしたためたのは上村幹男ただ一人であったと言います。

  (Wikipedia 「満蒙開拓移民」より)