秧鶏(くひな)は飛ばずに全路を歩いて来る  伊東静雄          (チェーホフ)


秧鶏(くひな)のゆく道の上に
匂ひのいい朝風は要らない
レース雲もいらない

霧がためらつてゐるので
厨房(くりや)のやうに温(ぬ)くいことが知れた
栗の矮林(わいりん)を宿にした夜は
反落葉(そりおちば)にたまつた美しい露を
秧鶏はね酒(ねざけ)にして呑んでしまふ

波のとほい 白っぽい湖邉で
そ処(そこ)がいかにもアット・ホームな雁(がん)と
道づれになるのを秧鶏は好かない
強ひるやうに哀れげな昔語りは
ちぐはぐな合槌(あひづち)できくのは骨折れるので

まもなく秧鶏は僕の庭にくるだらう
そしてこの傳説(でんせつ)作者を残して
来るときのやうに去るだらう


 (詩集「わがひとに与ふる哀歌」より)