昨日、載せた詩「業の花びら」には出典が書かれてありませんでした。でも、これはどこかで読んだことがある・・・と思い、見田宗介の「宮沢賢治ー存在の祭りの中へ」であったと思い出し、本を探して、見つからず、不本意ながら著作集を開いています。(_ _。)

 ああ誰か来てわたくしに云へ
 億の巨匠が並んで生れ
 しかも互ひに相犯さない
 明るい世界はかならず来ると

第一章 自我という罪 <三 家の業> ー自我はひとつの矛盾であるー に、こう書かれています。
 賢治の作品の中にしばしばつきあげてきて、文学作品としての存立自体をゆるがすこともある、あの切迫した思想表出のひとつでもあるこの四行は、「業の花びら」の初期形の一部を構成すると同時に、「産業組合青年会」の草稿の中にもまた書きこまれていた。<祀られざるも神には神の身土がある>といううつろな声とそれは表裏をなしながら、この日の賢治の厖大な詩想の群を通底するモチーフ自体であったからだろう。

見田の宮沢賢治論で、この四行は、りんごの中を走る汽車/汽車の中でりんごをたべる人(銀河鉄道の夜)のイメージとともに、忘れっぽい私も、忘れずにいたものでした。

 *身土=(仏教用語)身体と国土


    


 2015 2/24のブログから