⇒近代に至る文明の成果の高みを保持したままで、高度に産業化された諸社会は、これ以上の物質的な「成長」を不用なものとして完了し、永続する幸福な安定平衡の高原(プラトー)として、近代の後の見晴らしを切り開くこと。

⇒近代の思考の慣性の内にある人たちにとっては、成長の完了した後の世界は、停滞した魅力の少ない世界のように感覚されるかもしれない。

⇒けれども経済競争の脅迫から解放された人類は、アートと文学と思想の限りなく自由な創造と、友情と愛と子どもたちとの交歓と自然との交感の限りなく豊饒な感動とを、追求し、展開し、享受しつづけるだろう。

⇒幾千年の民衆が希求してきた幸福の究極の像としての「天国」や「極楽」は、未来のための現在ではなく、永続する現在の享受であった。天国や極楽に経済成長はない。「天国」や「極楽」という幻想が実現することはない。天国や極楽という幻想に仮託して人びとの無意識が希求してきた、永続する現在の生の輝きを享受するという高原が、実現する。

⇒けれどもそれは、生産と分配と流通と消費の新しい安定平衡的なシステムの確立と、個人と個人、集団と集団、社会と社会、人間と自然の間の、自由に交響し互酬する関係の重層する世界の展開と、そして何よりも、存在するものの輝きと存在することの至福を感受する力の解放という、幾層もの現実的な課題の克服をわれわれに要求している。

⇒この新しい戦慄と畏怖と苦悩と歓喜に充ちた困難な過渡期の転回を共に生きる経験が「現代」である。


見田宗介『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書1722) 2018年6月20日第1刷発行
 この序章の< 5 高原の見晴らしを切り開くこと>を、今日はそのまま引用しました。
 
何を言っているのか、初めに読んだときにはわかりませんでした。例えばこのように考えるとわかりやすいかもしれません。
→戦争を経験したり、大きな災害を経験したり、テロを経験すれば、何はなくても「平和」が、昨日と変らない日常さえあればいいと思うはずです。見田がともに考えようと投げかけたテーマ=「現代社会はどこに向かうか」は、現代に生きる全ての人のテーマだと思います。