家康人質時代から苦楽をともにした徳川家臣団。
 
11歳年長石川数正、3歳年上鳥居元忠や同級生平岩親吉は子どもの頃から家康に付き従いました💠
 
徳川家家臣団は石高、今で言うなら給料が少なく有名でした。
 
小田原征伐後、徳川四天王の本多忠勝は6万石でした。関白秀吉に、「勇者の本多忠勝はせめて10万石にせよ。」
と言われて渋々10万石にしました。
 
徳川家臣団給料が安いのに家康から離れず、生涯付き従いました。それは家康に猜疑心がなく、家臣を信用して
いたからです。
 
自分が戦死しても子孫を取り立てるところもありました。
 
一方の織田家は外様であっても、羽柴秀吉や明智光秀、滝川一益のように出自や前歴がよく分からなくとも、
実力によって出世し、高い給料を見込めましたが、主君信長の要望が常に高く緊張の連続でしたでしょう。
 
明智光秀が謀反を起こすべくして起こしたと言われています。
 
三方原の戦いで夏目広次、本多忠真が身代わりになって戦死しましたがピンチの時は自らが盾になって、主君家康
を守ると言う意識とは全く異なります。
 
織田政権は脆く、信長の死去とともに瓦解したとも言えます。
 
 


上野徳川と、改正しました。三河に限定された、『』から、桶狭間の戦いから没落した今川家にとってかわる

名字を変えました。

『松平』と、親戚筋でありながら、織田家に取り入る物もあり。信用できなくなったのもあるでしょう。

三河にいるた、どこもかしこも、松平性ばかりで、統領機と家と家度、いつ取って代わら、うかと狙うものばかりでした。

『』への改姓は成功し、後に幕府を開く際にも清和源氏嫡流を血統を誇示することができました。
さて、その中で安城松平が、徳川家康よ実家になります。

家康は9代目、7代目が、清康でした。
いわゆる守山崩れで、家臣に暗殺されます。

家康は祖父にあやかり、元信から元康へと改名します。



奥平家は元来今川家に仕えていましたが桶狭間の戦い以降は武田家に随身しました。

武田信玄没後は徳川家康に仕えますが人質としていた、弟や前妻は見せしめとしめて、武田家に処刑されます。

長篠城を守り抜きます。救援を求めた鳥居強右衛門は有名です。

の戦いでとなった家康と共に関東に移転した。

同年8月23日、上野国甘楽郡宮崎3万石に入封する。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは本戦に参加(一方で家史・中津藩史では、秀忠軍に属していたと記載あり)。戦後は京都の治安維持のため、京都所司代を翌年まで務める。この時、京都潜伏中の安国寺恵瓊を捕縛した。恵瓊が所持していたという短刀・庖丁正宗は、信昌が家康に献じたものだが、改めて信昌に下されている。一方で太秦に潜伏していた宇喜多秀家には逃げられている。 慶長6年(1601年)3月には、関ヶ原の戦いに関する一連の功として、上野小幡3万石から美濃国加納10万石へ加増転封される。慶長7年(1602年)、加納で隠居し、三男・奥平忠政に譲りります。

4男忠明は優秀で家康の孫にあたりますが、幕政にも参加し、老中としてにあたる家光を支えます。