小田原北条滅亡後。
徳川家康は秀吉から関東を任されます。一見、秀吉に左遷されたように見えます。
秀吉からすると、東海道に、海道一の弓取りの家康を置いておくのは危険です。
関東に移された、家康はまんざらでなかったと言われています。
単純にそれまでより領地が倍以上に増えます。
秀吉と政治的、心理的に距離が取れる。
おそらく、秀吉が信長路線を継承して、大陸進出するのも読んでいたでしょう。
あるいは直接、秀吉から直接聞いていたでしょう。
三河衆は頑固一筋がよいところですが、同時に独立性も強いので家臣から土地から引き離せる可能性があります。
また、前線基地として自らの土地や城を提供してましたので秀吉側は 手に取るようにわかったことでしょう。
関東に移り、新天地で上方と距離を取り、新たな派遣覇権を築くのには良かったでしょう💠
北条から反発がおきないように、意見を聞き入れました。自分自身のやり方を押し付けずに聞き入れ、信頼を勝ち取り、直臣化していきました。
関ヶ原の戦い当日、徳川家康は
「自分は年老いたのに、戦とは骨の折れることだ。こんな時に、倅がいたら。。」
と呟いたと言います。
せがれとは、長男信康のことでした。
関ヶ原の戦いから遡ること20年以上前、武田との内通の疑いがあり、家康の正妻築山御前と信康は処刑されました。
もし、この時信康が生きていれば、42歳。
勇猛果敢な大将となり、おそらく家康に代わって指揮を取り、関ケ原の戦いを大勝に導いていたでしょう。
また、その後は江戸幕府2代将軍になっていたでしょう。
信康は勇猛果敢でありながら、トップダウンで他人の意見を聞き入れない粗野など
ころがありました。
譜代からの家臣団を特に大切にして、常に意見を聞き、取り入れた父家康とは異なる性格です。
どちらかと言うと、『信』の偏諱と通称『三郎』を与えた義父織田信長に近い性格です。
『築山事件』として、母の築山御前も処刑されますな、城主を務める信康の岡崎衆と、家康の浜松で対立もあったとされています。
犠牲になったのが、岡崎三郎信康と言えます。














