関ヶ原の戦い当日、徳川家康は
 
「自分は年老いたのに、戦とは骨の折れることだ。こんな時に、倅がいたら。。」
 
と呟いたと言います。
 
せがれとは、長男信康のことでした。
 
関ヶ原の戦いから遡ること20年以上前、武田との内通の疑いがあり、家康の正妻築山御前と信康は処刑されました。
もし、この時信康が生きていれば、42歳。
 
勇猛果敢な大将となり、おそらく家康に代わって指揮を取り、関ケ原の戦いを大勝に導いていたでしょう。
 
また、その後は江戸幕府2代将軍になっていたでしょう。
 

信康は勇猛果敢でありながら、トップダウンで他人の意見を聞き入れない粗野など

ころがありました。

譜代からの家臣団を特に大切にして、常に意見を聞き、取り入れた父家康とは異なる性格です。

 
どちらかと言うと、『』の偏諱と通称『三郎』を与えた義父織田信長に近い性格です。
 
『築山事件』として、母の築山御前も処刑されますな、城主を務める信康の岡崎衆と、家康の浜松で対立もあったとされています。

犠牲になったのが、岡崎三郎信康と言えます。