今の校舎で若いスタッフを育成していきます🍀

最近、採用した学生講師には、わたしの母校の後輩もいます。

運営に関与させながら、育成していくスタイルは今の校舎でも実践していきます🍀

育成しながら、勝っていく方法は、

北条氏規は、北条氏康の5男として生まれました。武人というよりは外交、交渉に長けた人でした。今川との同盟の証として人質に出されますが、今川の精神的支柱の寿桂尼は、氏規の祖母に当たります🍀

秀吉による小田原征伐にも外交を担当します。
小田原北条氏滅亡に伴い、甥の氏直と伴に高野山に追放されます。

助命されたのは今川の人質時代の親友、徳川家康の口添えもありました。
一年後に赦免され、大阪狭山に一万石を貰います。氏直が病死した際に子供はなく、氏規の息子氏盛が養子として後を継ぎ明治維新まで続きます。

武田信玄の軍師山本勘助の言葉です。

「ひとつは、敵の状況を詳しく知り、これを分析する。大事なことは部下に知らせておく。ふたつめは、合戦の勝敗は六分か七分を持って勝利とする。3つ目は、武士として四十才前後は勝つように心掛け、四十才から、先は、負けないように心掛けることが、肝心」と言っています。

現代のサラリーマンにも当てはまる言葉です🍀

30歳代は成果を上げ、40歳代は死物狂いで働くと言うよりは周りを見渡して、と言うことでしょう🍀

山本勘助は若い時代に諸国を武者修行します。
50歳を過ぎてから、武田信玄に仕えます。希望した給料の倍で召し抱えられます。

諸国を歩いた際に毛利元就や大内義隆等の諸大名に関する知識や築城術の知識もあったからでし。40歳代は駿河の今川義元に仕官が叶わず、不遇を囲います。容貌が優れない勘助を今川吉元は重用しなかったようです🍀

上杉謙信との第四回、川中島の戦いで自らの奇策である『啄木鳥戦法』が見破られ、味方の布陣が崩れ、大将クラスが複数討ち死にしたことの責任を取り戦死します。



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2015年1月3日『江戸幕府と外様大名。その①』は定期的に読んで頂いています🌱。ありがとうございます。

江戸幕府の大名の配置に関するものです💠

江戸幕府は参勤交代に加え、定期的に大名の領地替えをして、根付かせないようにします。

関東や東海には、『親藩』と呼ばれる徳川、松平一門の大名を配置し、豊臣恩顧の大名は九州や中国地方、東北に領地を替えました。

江戸を本陣に見立てた大名配置は、先鋒として徳川四天王の井伊家をおきました。
彦根は日本列島のくびれに当たります。

越前福井には、松平家(家康の二男秀康を祖とする家)、伊勢桑名の徳川四天王の本多家(後に姫路に転封)が次鋒にあたるでしょう☘️。

『彦根城と井伊家』については
2014年12月25日記事を御覧ください。


江戸幕府は、伊達や、島津を四国に移そうと考えていましたが反乱や一揆を恐れ、それぞれの本領を安堵しました。江戸から遠い東北や南九州は力のある大名には任せた方がよいと考えたのでしょう。

伊達は戦国末期に最大120万石ありましたが、秀吉による小田原北条征伐前に臣従し、58万石に減らされます。

二男忠宗は父とは違って守成の人と呼ばれ、目立たないように過ごしました。江戸時代 260年で60万石を維持したのはさすがですね。

【この記事は2020年7月14日に加筆修正をしています。2021年1月22日にアクセスがありました】