島津は頼朝の落胤という節なあります。
信濃を貰い、今も、島津姓が、多いのはそのせいと。

忠長を養子に迎えようとして断られますが、頼朝の血を絶やさないようにと幕府から言われたとのこと。

源頼朝の血を引く島津氏が、江戸幕府を滅亡させ、大政奉還させるというのは因果が巡っています。


つゆと落ちに つゆと落ちにし 我が身かな。難波のことも 夢のまた夢

木下藤吉郎秀吉

出自が知れず、まさにどこの馬の骨ともわからない、時代の露のような立場から時勢にのり、1代で天下人にまで上り詰めます。

中世日本は身分社会ですのでいくら、下剋上とは言え、秀吉は、100年に一人出るか出ないかのまさに不世出の人物でした。

秀吉は、天下人になり、征伐を受けた小田原北条氏も九州の覇者島津。秀吉何するものぞの態度でした。有名な小田原評定を経て徹底抗戦の末、力尽きます。

徹底抗戦した小田原北条氏は完全に取り潰されますが、島津は本領安堵されます。

鎌倉時代からの島津を取り潰して、反乱や治安の低下を招くよりも、屈服させた後、権限を与えて統治させたほうがよいと秀吉は考えていました。

後々ですが江戸時代に3代将軍家光の弟忠長を養子に迎えようとして断られました。

続く。