最終回:鏡としてのモラヴィア
【モラヴィアの肖像④】
文学の悲鳴、映画の沈黙
アルベルト・モラヴィア
アルベルト・モラヴィアを尊敬する人物としてあげていた、映画監督フェデリコ・フェリーニ。彼はモラヴィアの本質を、こう語っていました。
「わがイタリアのような国では、いつも事実や現実の人物をゆがめたり、感情的に誇張したりしがちになる。
しかし、私にとってモラヴィアのように冷静で、明晰で、きわめて整然としたままでいようと努める精神は、わたしを励まし、元気づけてくれる。
私がモラヴィアが好きなのは、私たちがすでに知っている視点や仮説よりもっと大人びた、自立的な視点や仮説を示唆してくれること、もっと成熟した、役に立つやり方で経験を分類してくれることにある。」
この一ヶ月にわたり、イタリアの知性アルベルト・モラヴィアの原作がどのように映画へと転生したかを見つめてきました。
最終回となる今回は、三つの「裏切り」の共通点を総括し、映画というメディアが背負う本質的な業(ごう)を浮き彫りにしたいと思います。
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聖域(文学)の剥奪:なぜ映画は、モラヴィアの「不毛」を直視できなかったのか
Ⅰ.共通のキーワードは「美という名の目隠し」
『暗殺の森』の官能美、『イノセント』の装飾美、そして『軽蔑』の建築美。
これら三作に共通していたのは、「あまりにも美しすぎること」でした。
モラヴィアが突きつけたのは、逃げ場のない「不毛」や「虚無」という乾いた現実です。しかし、映画のカメラがそれを捉えようとした瞬間、レンズはそこに「美しさ」という名の救済、あるいは形式を勝手に与えてしまいました。
不毛という名の空っぽの器を、映画監督たちは自ら偏愛する色彩や調度品で満たさずにはいられなかった。私たちはその、美しいパラドックスの目撃者となったのです。
Ⅱ.「重力」と「浮揚」の相克
モラヴィアの文学には、精神を地面に引き摺り下ろすような暗い「重力」があります。それに対し、映画という表現は、観客に抗いがたい「浮揚感」を与えてしまいます。
- ベルトルッチは、政治的な悪を官能の光へと浮揚させ、
- ヴィスコンティは、魂の空白を装飾の眩惑で浮揚させ、
- ゴダールは、愛の不全を抽象的な記号へと浮揚させた。
映画が「傑作」になればなるほど、地を這うような人間の生々しい痛みは空中分解していく。美学という名の目隠しをしたまま、私たちはその「空虚」を愛でていたのです。
Ⅲ.文学が守り、映画が暴いたもの
今回の特集で見えてきたのは、映画は文学を「裏切る」ことで初めて自立するという事実です。
巨匠たちはモラヴィアの「精神」を塗り潰すことで、自分たちの美学を証明しました。それは文学への敗北ではなく、映画というメディアが持つ「外向性」——すなわち人の表面的な感覚を支配することへの勝利です。
私たちは、映画の美しさに酔いしれながらも、その背後で沈黙させられた「原作の悲鳴」を聴き取らなければなりません。美学という名の目隠しを自ら外した時、初めて見える「真実の欠片」がある。それこそが、本連載が目指した解像度の正体です。
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次回予告:新連載【ヴィスコンティの黄昏】
さて、次回の新連載からは、この「美学という名の目隠し」を誰よりも重厚に、そして誰よりも残酷に使いこなした一人の巨匠を、さらに深く解剖していきます。
その名は、ルキノ・ヴィスコンティ。
本連載の『イノセント』で見せた、あの魂の空白を調度品で埋め尽くすという狂気。彼はなぜ、愛するもの、高貴なものを、これほどまでに執拗に飾り立て、そして無残に壊さなければならなかったのか。
舞台はイタリアの貴族社会から、ナチスに侵される鋼鉄の一族、そしてベニスの死の波打ち際へと移ります。そこにあるのは、救済なき「滅びの作法」です。
第1回:『地獄に堕ちた勇者ども』――鋼鉄を溶かす「管理された淫らな自壊」
文学の悲鳴すらも黄金の棺に閉じ込める、ヴィスコンティのあまりに淫らな「遺言」を、共に紐解いていきましょう。
来週金曜日、溶鉱炉の火花の匂いと共にお待ちしております。
[第1回:暗殺の森を読む]
[第2回:イノセントを読む]
[第3回:軽蔑を読む]



