『皆殺しの天使』
鏡の迷宮、あるいは出口なき晩餐会――
ルイス・ブニュエルの呪縛
寺山修司が暴いた「家」や「血」という名の牢獄。その扉を開けたあと、私たちは本当の自由を手にすることができるのだろうか。
扉の向こう側に、さらなる「出口のない迷宮」を仕掛けた男がいる。
私はこの映画を観るたび、自分の部屋のドアノブに手をかけるのが怖くなる。もし、このドアが物理的には開いているのに、自分自身の「意志」がそれを拒絶し始めたら? その瞬間、私もまたブニュエルが仕掛けた迷宮の住人となるのだ。
晩餐会に集まった二十人のブルジョワたち。宴が終わり、彼らが帰ろうとしたその瞬間、目に見えない変調が世界を覆う。
扉は開け放たれている。逃げるのを阻む者は誰もいない。それなのに、彼らは誰一人として「その部屋」から出ることができない。
理屈ではない。これは「結界」だ。神聖な領域と俗世を分かつ、あるいは聖域に立ち入ることを禁ずる境界なのだ。
洗練された社交の場に、突如としてダチョウや羊が迷い込む。当初の優雅な晩餐は、次第に剥き出しの生存競争へと堕ちていく。シルクのドレスは垢にまみれ、高価な香水の香りは排泄物の臭気に塗りつぶされる。
理性という名の薄皮が剥がれ落ち、獣の唸り声が部屋を満たす時、私たちは画面越しに「文明の腐敗臭」を嗅ぐことになる。
寺山が『レミング』や『奴婢訓』で描いた「壁のない牢獄」。「出ようと思えば出られる」という幻想こそが、彼らをその場に縛り付け、精神を麻痺させる。
この物語の根底には、旧約聖書の「出エジプト記」に記された過越(すぎこし)の記憶が流れている。
かつてエジプトで、神は十番目の災いとして長子を撃つ「滅ぼす者」を遣わした。その時、鴨居に「小羊の血の徴(しるし)」を付けた家だけが、その殺戮を免れた。
ブニュエルの晩餐会にいる者たちは、自らの傲慢と偽善ゆえに、救いの徴を刻むことができない。
彼らにとって、天使は「過ぎ去る者(Pass-over)」ではなく、その場に留まり、魂を緩慢に殺し続ける「皆殺しの天使」なのだ。
彼らは、誰かが書いた「あらすじ」の中に閉じ込められた囚人だ。
鏡に映る自分たちの醜態を眺めながら、終わりなき停滞(デッドロック)を繰り返す。
この鏡張りの迷宮には、血の匂いも、喉を焼くような風も届かない。ただ、永遠に続く「閉じた時間」があるだけだ。
スマホ一つでどこへでも行けるはずの私たちが、SNSという名の「見えないリビングルーム」から一歩も出られずに、互いの醜態を監視し合っている。この映画の不条理は、半世紀前の寓話などではなく、私たちのタイムラインそのものではないか。
……彼らは過ぎ去るはずの天使に、その魂を永遠に殺戮されてしまった。
この映画を観終えたあなたは今、果たしてその部屋のドアをあなたの意志で開けられると、断言できるだろうか?
(次回:エレンディラ|G.マルケス)


