謹賀新年 🎍
新しい年を迎え、皆さまいかがお過ごしでしょうか。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、これまで続けてまいりましたフェデリコ・フェリーニ監督の特集はひとまずお休みし、新年からは新たな視点で「物語」を見つめ直してみたいと思います。
以前、芥川龍之介の『藪の中』の面白さについてご紹介しましたが、その続編として、今回は黒澤明監督の傑作『羅生門』について、あえて少し踏み込んだ視点から深掘りしたいと思います。
黒澤映画の芸術性や完成度は疑う余地もありませんが、原作小説『藪の中』を愛読する者にとって、映画に見られる「決定的な改変」には、どうしても拭いきれない違和感が残るのです。
芥川が冷徹な眼差しで捉えた「人間の業」は、映画という光の中に転生したとき、どのように形を変えたのでしょう。
文字の深淵から映像の肉体へ。その「転生の狭間」に何が残ったのか、丁寧に紐解いていきたいと思います。
第1回『羅生門』
【物語の転生:文字から映像へ、失われたものと生まれたもの①】
▪️作品概要:映画『羅生門』とは
1950年公開。黒澤明監督が芥川の『藪の中』を物語の核に据え、別の短編『羅生門』の設定(雨の降る荒廃した門と下人)を借りて構築したハイブリッドな作品です。
ある殺人事件を巡り、当事者たちがそれぞれ全く異なる「真実」を証言していく物語。ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、日本映画が世界に認められるきっかけとなった歴史的傑作です。
――視点の逸脱:なぜ黒澤明は、芥川の深淵なる絶望に「救い」を書き加えたのか
▪️黒澤映画の「ヒューマニズム」が核心を変える
原作『藪の中』が描いた究極のテーマは、誰も真実を語らない、語ることができないという「究極の相対主義」です。盗人、妻、そして死霊の証言までもが自己保身やエゴに満ちており、読者は永遠に真相を知ることができません。
しかし、黒澤監督はここに「ヒューマニズム(人間性)」という要素を持ち込みました。これが、原作の核心を大きく揺るがすことになります。
▪️木樵(きこり)という「真の証言者」の登場
映画が原作のテーマから大きく舵を切った最大のポイントは、木樵の役割です。
- 原作の木樵:真相については何も知らない「取るに足らない人物」。
- 映画の木樵:事件をすべて目撃した唯一の「真の証言者」として登場。
この改変によって、映画は「真実は藪の中」という主題を切り捨てて、「客観的な事実が存在する」という映画的な分かりやすさへと着地してしまいました。
▪️「決闘」による動機の矮小化
原作における各々の証言は、非常に複雑でエゴイスティックです。
しかし、映画版での木樵が語る「真相」は、それらをすべて「泥臭くて醜い決闘」という分かりやすい展開に収束させてしまいました。
芥川が描いた人間の内面の深淵は、「男同士の対決」という、具体的で大味なテーマに形を変えてしまったのです。
▪️視点の違い:文学の「不信」vs 映画の「希望」
ここで、原作と映画の決定的な違いを整理してみます。
- 原作では「証言が食い違うのみ」だが、映画では最後に「客観的な真相」が語られる。
- 原作では永遠に解決を見ないが、映画は「解明」へと向かう。
- 原作では「人間不信」の奈落へと突き落とすが、映画では孤児を救う「善意」を描く。
- 原作のテーマは「人間の業」だが、映画では「人間の希望」。
▪️映画独自の結末と「後付けのヒューマニズム」
映画のラスト、木樵が捨てられた赤ん坊を引き取るシーンで「人間を信じなくては生きてゆけませんよ」という言葉と共に、光が差し込む中で終わる結末は、黒澤監督独自のメッセージです。
黒澤監督は、絶望の中にも「人間の善意」という救いを提供したかったのでしょう。
しかし、芥川が突き放した「人間への根源的な不信」を、最後に「希望」で回収しようとした試みは、原作ファンから見ると、「黒澤明の祈りにも似た、後付けのヒューマニズム」のように映ってしまいます。
▪️おわりに
黒澤映画は世界的な傑作です。しかしそれは、芥川が描いた「底知れぬ不信感」を、黒澤監督が「人間への希望」という熱量で上書きした、原作とは全く違う、別な果実です。
もし機会があれば芥川龍之介の『藪の中』を手に取ってみてください。そこには、映画では描ききれなかった、ゾッとするほど鋭利に研ぎ澄まされた、「人間の業」が待っています。
皆さまにとって、この物語の真実はどのあたりに見えるでしょうか。
本年も引き続き、どうぞお付き合いください。

