ラズロ・ネメシュ
『サウルの息子』
視線の監獄、祈りの灰――
救済という名の欺瞞を打ち砕く
辿り着いたのは、出口のない地獄の、その最奥だ。
『異端の鳥』で少年が泥水を飲み下し、喉を震わせて手にした「自分の声」。
それさえもが生温かい執着に見えるほど、ラズロ・ネメシュの描く『サウルの息子』は、私たちの視界を冷酷に、そして暴力的に奪い去る。
スクリーンに映し出されるのは、全編を通して徹底的に制限された「4:3」の狭い画角。そして、主人公サウルの後頭部に執拗に密着するカメラだ。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。ゾンダーコマンド(特殊任務部隊)として、同胞をガス室へ送り、その遺体を「荷物」と呼び、灰を川へ流す日々。
ここで世界は、広がりを失った。焦点が合っているのは、サウルの背中と、彼の目の前にある実務的な死だけだ。背景でうごめく地獄の全貌は、常にぼかされ、焦点を結ぶことを許されない。
私たちは、サウルの視線という「監獄」に閉じ込められる。
これまでの映画が、いかに「観客」という安全な特等席から、惨劇を俯瞰して消費させてきたかを突きつけられる。
ここには、感動的な旋律も、劇的なカタルシスもない。あるのは、ただ止まることのない、無機質な虐殺のルーチンだけだ。
その窒息しそうな日常の中で、サウルはある少年の遺体に出会う。
「俺の息子だ」
彼はそう呟き、狂気じみた執念でユダヤ教の作法に則った埋葬を試みる。ラビ(聖職者)を探し、カディッシュ(祈りの言葉)を捧げるために、彼は収容所内の蜂起という、生死を分かつ状況さえも平然と横切っていく。
傍目には、それは無意味な狂気に映るだろう。
生きた人間を救うことよりも、死んだ「息子」の埋葬に固執する姿は、極限状態が生んだ解離かもしれない。
けれど、この徹底した「個」への固執こそが、数として処理される灰の山に対する、彼なりの、そして人間としての最後の「反逆」だったのではないか。
『異端の鳥』の少年が、泥の中から「自分の声」を絞り出したように。
サウルは、灰に変わるはずの肉体に「名前」を与えようとする。
それは宗教への回帰などという甘美なものではない。神が沈黙し、言葉が灰とともに川に流される場所で、なおも「一人の人間として死なせる」という行為だけが、彼に残された唯一の生存の証だった。
物語の終盤、サウルの顔に一瞬だけ浮かぶ微笑。
それは、私たちがこれまで触れてきた「美しい物語」の結末とは、あまりにかけ離れた不気味さと神聖さを帯びている。
彼が見たのは、救いか、それとも鏡合わせの絶望か。
泥水を飲み、死の行進を繰り返し、最後には灰の中を泳ぐ。
この連載を通じて見つめてきたのは、装飾を剥ぎ取られた人間の、あまりに脆く、けれどあまりに強固な「個」の輪郭だ。
いま、画面から目を離しても、私の耳の奥にはまだ、あの収容所のざわめきと、サウルの荒い呼吸がこびりついている。
その呼吸の苦しさこそが、彼らが確かにそこにいたという、唯一の熱量なのだ。
乾いた喉を震わせ、私は今、自分の名前を、もう一度確かめるように飲み下す。
――
(次回:銀河鉄道の夜|宮沢賢治)


