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レオヤナギさん!どちらへ?

ニュース、サッカー、音楽、etc..。自分自身のメモ帳がわりに書いて行くつもりです。転記の際、自分自身が内容を理解する為また記憶する為に、下線や色分けを独断でしております。


武田邦彦(中部大学)氏のブログより



<転記開始>↓




平成25年1月23日

   なぜ、日本人は子どもを被曝させたか?(3)
       「医師の反逆と医の倫理」


  
  「ishitdyno.59-(12:44).mp3」をダウンロード

福島原発以後、医師に相談できなくて困っている人が多い。その理由は医師が法令や事故前に言ったことを無視した発言をするからだ。つまり「法令では飲酒運転は禁止されていますが、私は大丈夫と思いますよ」というようなことをいうのだから、信用できないのは当然だ。ではなぜ、そんなことになったのだろうか?

原発や放射性物質、放射線の利用が始まってから、日本国民は日本の法律で被曝から守られてきた。自然放射線や核実験による降下物を除いて、「産業からの被曝」と「医療用被曝」を区別し、医療に関する医師の判断を尊重して、「治療に関する被曝量は法令で決めない」としてきたと認識している。

医療は一般社会と全く違う。足が壊疽を起こしたら足を切断することがあるが、医師は「傷害罪」に問われない。それは「足を切断する」ことより「壊疽が進んでより重篤になる」ということを医師が判断することができるからだ。

一方、「産業からの被曝」はそれほどのメリットは無い。だから、1年1ミリシーベルト(内部+外部)で制限してきた。これは一般人ばかりでは無く、原子炉作業員ですら、自主規制してきた値である。

ところが原発の爆発が起こり、一部の医師が反逆して、「産業からの被曝量も医師が決めることができる」と言い出した。これは「東電の社員でも、一般人の足を切り落としても良い」ということだから、これまでの日本の常識、倫理、法令にすべて反することだった。

尊敬すべき医師がこのような態度にでて、国民の被曝を増やす原因となった理由は何だろうか?つぎのようなことが考えられる。

 1)被曝の法令が存在することを知らなかった(否定される)、
 2)知らぬうちにすっかり傲慢になり、法令より自分の判断が上と思った、
 3)放射線関係のメーカーからの便宜を受けている(賄賂系)、
 4)政府、福島県などから強要された、
 5)そもそも「医学」と「医療」の区別ができなかった。


おそらく原発からの被曝が1年100ミリまで良いなどと言った医師は、このうちの複数の理由によるものと考えられる.

ところが現状はさらに問題がある。つまり、放射線の専門医は「1年100ミリシーベルトまで被曝は認められる」と言ったが、それから約2年。どうも医師は「治療に何ミリシーベルトまで良い」という基準を持っていないような様子だ。医師に個別に聞いて見ると、「100ミリじゃないですか」という程度だ。つまり医師は際限なく患者を被曝させることができると思っているらしい

どんな医療でも個別の医師が全権を持っているわけでは無い。治療もガイドラインがあり、安楽死はもとより、制限のない臓器移植や、残酷な治療、重篤な副作用のある治療は学会などで検討され、不適切とされている。

すでに2004年のランセット(医学の世界的学術誌)で、日本の医療被曝で医療を原因としたガンが先進国の中で飛び抜けて高く、3倍以上の可能性があることが指摘されている。

まして、医師が「私たちもメスで体を切るのだから、ナイフで人を刺すのがなにが悪い」などというのは完全な反社会的な行為で、とうてい許されない。最近の日経新聞で国連の被曝記事を出していたが、これも原発から等の被曝との関係をまったく書かれていないもので、「メスとナイフ」の類いであった。

今まで医療について信頼してきた私は、深く失望した。多くの医師は個人の生活を犠牲にして患者の治療に当たっている。でも、治療のために使う被曝の限度も国民に説明せず、医療以外の被曝の領域をあたかも自分が決めることができるように言うのだから、かなり悪質な医師がいることは確かだ。

日本では、医師が治療を自由に行えるように、治療の判断を医師に任せている。でも、天井知らずの被曝をさせることが常識となっているのなら、医師の治療限度を法令で定めなければならない。しかし、それは日本の医療について悪い方向に行くだろう。

医師は信頼され、尊敬されなければならない。人は自らの体を傷つけた医師に「ありがとうございます」というのだから、医師は信頼され、尊敬されていなければならないのだ。

2011年の原発事故は、政府、自治体や技術者、有識者の問題を浮き彫りにしたが、医師もまた法令違反、倫理に悖る行為、あるいはムチャクチャというような言動をくり返した。

念を押しておきたいが、「集団における低線量被曝」については「科学的に明確では無く、従って予防原則にそって、科学的に明らかになるまで安全サイドを盗る」というシッカリした概念と、国際的に認められた「被曝は個人の損害だから、それに見合う利益が得られなければ被曝は認められない」という正当化の原理に基づいている。

治療被曝と産業からの被曝を混同した医師は、

 1)自らの間違いを認め、それを公表すること、
 2)もし治療用被曝と産業被曝は同じと考える医師は医師免許を返上すること、


を求める。

これ以上、「危険かも知れない」被曝を国民が受けるのは許されることではない。最近の日経新聞が国連の機関が「被曝は大したことはない」という報告を出したことを報道しているが、そこには「日本人は日本の法令で守られる」ということに全く触れていない。

医師も日経新聞も「国民を病気にさせる鬼」になってはいけない。日本の法令について少しでも触れて、それと自らの主張を明らかにすべきだ。






↑<転記終了>









「木村正人のロンドンでつぶやいたろう」より




<転記開始>↓




 【アルジェリア人質事件、犠牲者の氏名公表へ 「匿名」の歴史など存在しない】

アルジェリア人質事件で犠牲になった9人の遺体を乗せた政府専用機が25日にも日本に到着する見通しとなり、菅義偉官房長官は、遺体の到着後、「定例記者会見で政府の責任で公表したい」と、氏名を公表する方針を初めて明らかにした。これまで氏名を公表しなかった理由について「ご家族の心情を第一に考えた」と説明したが、当初、「匿名発表」したことについてもう少しきっちりした説明がほしい。

遺族感情に配慮するのは言うまでもないことである。しかし、今回の「匿名発表」で報道機関は第一の責務である安否の速報ができず、親族以外の関係者は不安な状態を強いられたのではないか。当初の説明では遺族が「氏名公表」を望んでいないような印象を受けたが、今度は一転、政府の責任で公表するという。法的な位置づけは一体、どうなっているのだろう。

氏名を公表すると「メディア・スクラム」と呼ばれる集団的過熱取材が発生し、傷ついている遺族をテレビカメラのクルーやマイクを持った記者が追いかけ回すという批判が、拙ブログにも多数寄せられた。日本新聞協会や民放連はメディア・スクラムに対するより明確なガイドラインを早急に設けるべきだ。

Yahooニュース欄にあるクイックリサーチによると、「氏名を公表すべきだ」が1万6335票(約30%)、「公表すべきではない」が3万7241票(約70%)となり、ネットユーザーの圧倒的多数が「公表すべきではない」と考えていた。

新聞協会や民放連は、報道のスタートラインとなる警察や行政機関による「氏名公表」にこれだけ多くの疑義がさしはさまれていることを肝に銘ずべきだ。

社会の信頼を失えば、いくら「氏名公表」が大切だと言っても、メディアの言い分に耳を傾けてくれる人はいなくなる。

英国でも、日本で殺害された英国人女性の自宅に日本メディアが殺到し、地元警察が縄張りを張って日本メディアを締めだしたことがある。その後は、民間プレスオフィサーが遺族とメディアの間に入り、取材の交通整理を行なった。

事件の風化を防ぎ、事件解決の糸口をつかむためにはメディアの影響力は欠かせず、長期的にはいろいろな形でメディアと遺族の協力関係が生じてくる。例えば日本に、英国にあるような民間のプレスオフィサーが確立しているのだろうか。

遺族の敬愛追慕の情やプライバシーを守りながら、メディアが公益に果たす影響力を引き出すためには知恵が必要だ。

市民からは大手メディアの既得権益を守る利益団体と色眼鏡で見られ始めた日本新聞協会も下部組織の「集団的過熱取材対策小委員会」や新聞各社の第三者機関任せにせず、報道倫理を検証するより透明性の高い第三者機関の設立を真剣に考える時期が来ているのではないか。

人は生きて死ぬことで、望むと望まざるとにかかわらず歴史の一部になる。「匿名」の歴史など存在するのだろうか。

僕が今回の「匿名発表」で違和感を覚えたのは、死んでまで「氏名」という人格が個人ではなく政府や企業に属していると感じられる極めて日本的な文化と感覚である。

英国では法律を犯さなければ、好きなことをしていても誰からも批判されることはない。イスラム主義者だって暴力やテロを伴わなければ、公の場で自分たちの意見を自由に述べることができる。米国からは「英国はテロリストの温床だ」と批判されることもあるが。

自分の愛する人、家族、親類、知人が亡くなった時、メディアに対して発言するかどうかは、それぞれ個人の自由に委ねられている。

その自由を保障するように、英国では自分が嫌なことを無理強いされた経験がまったくない。嫌なことには「NO」と拒否することができ、その意志を尊重する文化が根付いている。

今回のアルジェリア人質事件でも、英国のテレビで遺族が犠牲者のことをしのんで、自然に語っているのを見ると、日本で「氏名公表」の是非が事件そのものよりも大きな波紋を呼んでいることに残念な気がする。

日本では、政府に死者の氏名を管理する権利まで与えられているとでもいうのだろうか。プラント建設大手の日揮にせよ、今後、犠牲者との間で利害相反が生じる可能性もあり、「氏名公表」をうんぬんできる立場にはないと思う。

多くの読者が懸念しているメディア・スクラムは遺族のプライバシー保護の観点から徹底的に論ずるべきで、「氏名公表」の是非とは切り離すべきであると僕は考えている。遺族が取材を拒否するという意思表示を行えば、取材しないという配慮が求められるのはもちろんのことだ。

今回の事件で、報道の基本となる5W1Hの核をなす「Who(だれが)」について報じる必要がないと考える人が日本でこれだけ増えていることに愕然とする。僕は新聞社を去った身だが、拙ブログに寄せられた「メディアの自業自得」という言葉が心に深く突き刺さった。


(おわり)




↑<転記終了>







「生活の党」HPより




<転記開始>↓




              「生活の党」とは

  綱領

 政治には未来をつくる力がある。我々は、自立した個人が自由と公正を規範とし、多様な価値観をもつ他者と互いに認めあう「共生の社会」を目指す。我が党は、「国民の生活が第一」の原則を貫いて日本の政治、行政、経済、社会の仕組みを一新する。そして、国民が「自立と共生」の理念のもとで、安心安全かつ安定した生活を送り、みずからの将来に夢と希望を取り戻し、誇り高く暮らせる日々を実現することを目標とする。

 我が党は、我々がたずさわる国政とは「国民の厳粛なる信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」(憲法前文)ものであることを真摯に受けとめ確認する。  我々には「正当に選挙された国会における代表者」として政治を主導する権限と責任があること、その政策は国民の利益を増進するものでなくてはならないこと、国民との約束は誠実に遵守する必要があることは、正しく日本国憲法が求めているところであり、民主政治の原則である。


  三つの前

「国民の生活が第一」の社会を追求するに当たっては、三つの前提が確立される必要がある。



 1.国民の主権
 主権者である国民に対し、情報は常に開かれていなくてはならない。国も官僚も企業も団体も、もはや公共の福祉の名のもとに情報を独占し隠蔽することは許されない。議会制民主主義の虚構化を回避し、「国民の代表者」による真の政治主導を確立することは、国民主導の政治の実現のための必要条件である。


 2.「地域主権」
 日本の各地域には、連綿と続く歴史があり文化があり暮らしがある。地域が地域としての自立性と公平性を維持しつつ、産業と生活の利便を享受できる街づくり、地域づくりが確保されなくてはならない。そのために必要な国と地方との関係については、統治機構の抜本改革の中で協議を先行させる。


 3.国家としての主権
 いかなる個人もどのような地域も、国家の自立なくして成り立ち得ないのは自明である。同時に、国民の人権が侵され、国土が保全されないとすれば、国家の威信も守れない。日本が国家としての主権を毀損されることがないよう、安全保障のみならず、文化、教育、科学技術、経済、金融、外交等々、広く目配りして真の主権国家を確立する。


 我が党は、諸国家、諸民族、諸文化、さらには自然とも共生する理念のもと、世界の平和と持続的繁栄のための諸活動に、性別・年齢・分野を問わず積極的に参加することを求める。平和と繁栄という普遍的な目的への人類史的貢献の発信者としての日本を、すべての国民が名誉と思える時代を築くためである。




↑<転記終了>