ちーーっす。

 

 

 

 

 

 

アドバンテージ、と聞くとどうしても脳内で

「アドバンテージ、岡」(「エースをねらえ!」より)という声が

聞こえてしまうタカノです。

 

ご機嫌いかがでしょう?

さて、前回の続きです。

 

 

 

多数派は「なんとな~く」差別する

 

多数派が権力を持ち支配する社会というのは、自分の仲間以外の少数派を「いないものと認識している」社会です。いたとしても意味を与えない。少数派のことなんて考えない。いないも同様だから。というか、自分と価値観を持つ存在なんて想像なんかできないのかも。「多様性のある社会」なんか意味わからなすぎるしそれについて考えることすらない。

そんな中で、少数派は少数派であることを隠して(あえて表明せずに)多数派のふりをして(できるのであれば?できるか??)生きるか、覚悟の上少数派であることを表明するかどちらかを選ばなければなりません。

 

とはいえ、私は重要な事実に気づきました。多数派というと、すべての構成員が確固たる意志を表明しているように思えるかもしれませんが、事実はそうではありません。ほどんどの構成員は「空気」に反応する人々の集団です。なんとな~く群れを成して生きている。そしてなんとな~く自分と違う人々を差別する。迫害する。搾取する。殺す。

この「なんとか~く」が怖い。まったく意識せずになされる行為だからです。

 

仏教的には、「それと知らずに悪いことをする人」のほうが「わざと悪いことをする人」よりも、業が深いのだと聞いたことがあります。(真言密教系Kさん談)

なぜなら、無意識の行為というのはそもそも意識されていないので、つまり、どこを正せばいいやらまったく見当もつかないわけです。

 

多数派の何が怖いって、そこですね。

すべてが無意識ゆえの言動なので、本人にすらコントロールができない。

 

どんな場合でも隣の人と同じであればそうする、そんな主体性のなさすぎるそれでいて自分は正しいと思い込んでいる妖怪みたいな人々が跋扈する社会なんですよ。

今の日本は。

 

そんな中で、少数派は少数派としていかに生きるべきか。

それをみつけなければならない、って話でした。

 

 

 

 

内側からの声を聴くものが生き延びられる

 

多数派がどうして無意識のまま生きることになったかというと、彼らは「自分の言葉」を獲得するという機会を得ることがなかったからです。

なぜって、その必要を感じないから。そもそも、喋っているとしてもそれは「自分の言葉」ではなく「誰かの受け売り」です。コピー&ペースト、ですね。

それでも喋れますから。しかも、誰かの受け売りなら自分の頭で考えなくていいし責任もとらなくていい。楽です。ちょっと不安になったら、隣の人と同じことをすればいい。楽ちんです。それでもちゃんと生きていけるし。

平時なら、そんな多数派も少数派を放っておいてくれるので結構平和です。少数派の感性を刺激として面白がる余裕も多数派にもあったりします。

 

でも、今は平時ではないのです。

多数派が少数派の存在を認めずに抹殺しようとする、そしてそれを認めるだけでなく宣伝する社会、というのは本当に「非常時」なんだと思うんです。

 

空爆の中を逃げまどい、『子どもはみんな防空ごうだ』と引きずられて入った防空ごうを見て、“ここにいたら死ぬ”と思って、みんなが止めるのも聞かずに飛び出しました。外は地獄でした。その防空ごうにいた人はみんな土砂崩れと爆風で亡くなりました。 岸恵子さん談

 

多くの人が自分の言葉を持たずぼんやり眠るように生きている社会で生き残るには、やはり「目を覚ましていること」が大事だと思います。非常時に自分の内側からの声を聴いた人間のほうが「生き残る確率が高い」のかもしれない、と私は思っています。防空壕を飛び出ることができる者、それが内側の声を聴ける人間です。つまり、それが「少数派」の人々なのだと思います。

 

私自身も、自分の中にある「危険」を察知するアラートをなによりも信用しています。「我慢するのが美徳」だとか「ここで去るのは失礼にあたる」とか「社会人としてふさわしくないのでわ?」とか、そういう言葉が脳裏をよぎったりもしますけど、それは無視します。だって、『そこにいたら自分の中の大切なものが死ぬ』から。

身体や精神のためというだけじゃなく、魂に失礼、というか。この人間として生きる存在だからこそ必要な動物的勘みたいなもの。これは、生きる上で必要不可欠なものであると思うのです。

 

自分の言葉を持つ者。

内側からの声も聴ける者。

 

その者たちこそが「常識」という壁を打開するきっかけになりうるのではないか。

 

 

 

 

新しいものが生まれるためには

 

ある社会が存続するために必要なこと、なんだと思いますか?

それは「変化し続けること」なんだと思います。少なくても「変化を厭わない柔軟性」を持つ社会でないとどこかでその集団は硬直化して機能しなくなります。

ソ連がそうだったように。挙句は自己崩壊するか他国に滅ぼされるか。

 

「同一化」しようとする動きは、社会を硬直化します。多数派思想の骨子はこれです。「変化をしないこと」「今の状態を未来永劫続けること」

いったん自分に理のある社会を作ったらそれを永遠につづけようとする。他の変化の動きを封じ込める。圧殺する。 

 

私事で恐縮ですが、ここ3年いろいろな現場で感じてきたことから抽出できることって「それ」なんですよね。狭い世界に住む人というのは他の価値観を認められくなります。ずっと仲間とつるんでいれば語彙も増えない、いやそれどころか「あうん」が通じる相手とのコミュニケーション?(成立しているという誤解の上であっても)しかないのであれば、かえって知性は鈍する。

自分の作った、お仲間との「帝国」を変化によって壊されたくない。だから、変化の「芽」は見つけ次第、摘む。それが現場での私へのパワハラとなっているという現状でした。自分の言葉で生きることができないということは、加害者の側にたってしまう確率が高いってことじゃないでしょうか。人間として知性を充分に生かしているとも言えませんねぇ。

少数派でいることは、よって立つ場所を最初から意識できるという優位点があります。自分の声を聴くことが出来る。危険を察知できる。だから、有象無象に引きずられて崩れることになっている防空壕に逃げ込まなくて済むんです。

 

内田樹さんは近年口に上ることのなくなっている「勇気」の必要性を説いておられます。防空壕に逃げ込まずに松の木に上って突破口を開いた岸恵子さんのように「ひとりでも何かをする」覚悟があるか、それが勇気なんだと思うんです。

 

最初のひとりになる覚悟。

これを持っているのは少数派の「変わっている」と言われる人々であるのだと思います。「変わっている」「変な子」に幸いあれ。彼らは世界を観るであろう。

 

 

 

ああ、なんとかまとまった・・・。

 

 

 

 

ではまた!