ちーーーっす。
ハラスメントについて考え続けています。
ハラスメントをする人は比較的狭い価値観の世界に住んでいるのではないでしょうか?今現在、私にハラスメントをしている人は「一度もこの町を出たことのない」人のようです。進学や結婚や引っ越しとかで転出したことが一度もない。親族とくらしたことしかない。カルチャーショックを受けて自分が持っている価値観が崩れる、という体験をしたことが一度もないとしたら、狭量になるのは致し方ないでしょう。
そりゃあネットが発達して海外の情報もスマホで見られるのが現代ですけれども、「自分と違う考えの人がいる」を体験するためにはそれでは充分ではありません。さらに、その場所で「弱者」であること、が必要かもしれないと思います。
場を取り仕切る「強者」は、そこを自分にとって都合の良い居心地の良い場所に仕立て上げることができるわけですから、何の問題も感じることはありません。違和感すら感じることはないでしょう。感じる前に排斥するからです。
たとえば、アメリカにおいて強者であるWASP (ワスプ)側の人間には、人種間の差別などの問題点はまったく見えないのです。問題はない。
問題定義ということは強者にはできないのです。
村田のおいちゃん追悼カレー。「世界はそれほど悪いところでもないよ」
彼から受け取ったメッセージはそれだったように思います。
世界中どこにいっても、人間は「自分と同じ価値観の人」(厳密にはいないんですけどね)で固まりたいのでしょう。安心だから。(本当のところ、そこから人間関係を始めると、「自分とどこが違うか探し」になって永遠に安心できなくなるんですけどね。)だから、自分と違うと思った者は排斥する。それが当たり前になっているのが日本という国です。同胞と思われる者以外には優しくもなんともないカジュアルな差別国です。
自分と違う考え・出自・信仰・風体の人たちとやっていくためには、一定のルールが必要になって来るわけで、それが「公」ってヤツなのだと思います。日本ではこの「公」の意味がまったく機能していないんじゃないでしょうか。
だって、価値観の違う人とうまくやっていこうなんてこれっぽっちも思ってないから。
だから、ハラスメントの現場は「茶の間化」するんです。
ありていに言うと、そこはボスが牢名主であるところの「牢獄」になってしまう。テレビがあって茶菓子があるけど、そこは恐怖が支配する「牢獄」。外部の目は届きません。外からは楽しそうにやっているようにしかみえないはずです。そう振舞うように「見えない圧力」をかけられているわけですけれど、それは見えない。永遠に見えない。笑顔でハラスメント。まったくのホラーです。
私以外の人間であったら、それはハラスメントでもなんでもなくて「我慢すべきしきたり」ぐらいに思うのかもしれません。そこを辞すことが知れた時点でも「判断が速すぎるんじゃないですか」なんて言われましたからね。
正直、ハラスメントに「慣れたら」お終いですよ。
固い文章をいつも読んでくださってありがとうございます。
ではまた!