ちーーーっす。
 
 
 
 
 
 
 
私達はすでに戦時下に生きているのだと思います。
実際、それに気づいているかいないかってだけの話じゃないですかねえ。
椎茸菌を植えイモを植えるのは趣味とかの話じゃなくて生き延びるためです。自分と親しい人のためです。預金が封鎖されて金が紙みたいになってマーケットに食料が並ばなくなったときに信じられるのは大地と自分で育てる植物だけだから。
 
さて、一方、そういった戦時下では、人の本性というものが露(あらわ)になるのではないかと想像します。何が怖いってそれが一番怖い。地上が地獄になる瞬間です。
デマが元で差別だけじゃなく殺人も起こる。そう、そうなんです。
 
 
土の上に立つと大地からエネルギーが供給されるのがわかります。
都会ではその回路が封鎖されています。
 
 
してみると、私の行動はその「起ってはいない非常時」を基準にしているのかもしれないって思いました。渋谷区で電気工事の警備をしているときに見えたビジョンは強烈でした。都会の住宅地で、一旦地震などが原因で火災がが起こったらどうなるのか。ちっさな公園が避難所として機能するとは思えませんでした。水がない。土もない。車もも使えない。首都圏中がそんな有様なら、支援物質なんかも届かないでしょう。そういう時、警察がまともな仕事をするとは思えません。そんな状態が続いて改善の見込みがない状態だと判明したら、そこは犯罪の巣になります。窃盗・強奪・強姦・殺人。阿鼻叫喚とはそのことです。
 
「起こっていな非常時」について語るなんてとおっしゃるかもしれませんけど、この感覚は大事かと思います。命の危険を察知して回避する能力です。
道北に居を移したのも、首都圏にいたら生きられないと感じたからです。
 

「買えばいい」が通用しなくなる事態も考えること。
自分で食べ物を作れるようにしておくのは危機管理の基本。
 
 

一番の危機管理は、「最低限の食べ物の自給ができること」と「信用できる人間関係を持つこと」に尽きます。困っているときに手を差し伸べてくれるかどうか、という「人を見る」基準はよく聞きますけど私が採用しているのは、その最上級にあたるヤツです。

 
「(たとえば)無実の罪を着せられている時に自分を信じて匿ってくれるかどうか」

 

少なくても、見逃してくれるかどうか。

親族だからって無条件で匿ってくれるとは限りません。家族を人質にとられたら誰だって遠い親族を切り捨てるでしょう。親族が体制側である場合は言わずもがな。
友達。こういうときに「本当の友達」か「知り合い」かがわかります。「友達」にみえても、それはあなたが今、自分にとって便利だから「友達」なのかもしれない。状況が変われば、平気であなたを見放す人かもしれない。
この設問は、立てると同時に自分に返ってくる厳しい設問です。
 
「その人を信じて匿えるか」
 
誰と食べ物や情報を分け合い、誰と距離を置くのか。
今言えるのは、権威に従順で権力のある人の尻馬に乗るような人とは距離を置くべきだということです。そういう人は点数稼ぎのためになんでもやる人たちですから。
 
 
 

 

 

 

ではまた!