ちーーっす。

 

 

 

 

 

ずいぶんお久しぶりです。

あいかわらず、現れるサインを手掛かりに、私の旅は続いています。

 

さて、今回は「物語」に関する考察です。

 

ニンジンの花

 

 

 

「物語を殺せ」。

 

物騒なタイトルではあります。

物語を紡いできたまんが作家としても、自らに刃を向けるような?

 

 

 

きっかけはこの書籍でした。

「ストーリーが世界を滅ぼす」。購入した時に、この本は私の中のてんでばらばらにみえる疑問点をすべて繋げる補助線の役割をしてくれるだろうという確信がありました。

 

 

では、考察スタート。

 

 

 

 

1,なぜまんが作品が読めなくなったのか

 

そうなんですよ。

いつの頃からか他人様(ひとさま、とお読みください)のまんがが読めなくなりました。

世の中の売れ線を知るために「はちみつとクローバー」「20世紀少年」を、なぜ人は異世界ものにはまるのかを知るために「バルバラ異界」を読んだってのが最後ですかね。(古い・・・。)

 

なんだか北海道を舞台にした「ゴールデンカムイ」ってのが、最近の売れ線らしいもは知っていますけど、本当に読みたくない。

暇つぶしであっても読めない、読まない、読みたくない。

「諦めたら、云々」とかの、まんがの名言とかを見聞きすると吐き気がするくらいで。病気か?

 

以前からあった特に売れ線に対してのこの嫌悪感についてはうまく自分でも説明できないままに来てしまいました。ただの嫉妬かもっていう説が強かったんですけどなんだか、それだけでは説明できないんですよ。とにかく「それ」から顔をそむけていたい。

それについて語りたくもない。

 

言えるとしたら「今の自分にはもう必要ないから」ですかねえ。

 

「もう必要ない」のは、まんがのどのような「性質」についてなのか。

このポイント、お気づきですか?

これ、私がここ15年追っているテーマじゃないすか!!

 

人の心を奪う「まんがの本質」とは何なのか?

 

 

 

 

 

2,他人様が押し付けてくる「物語」が苦痛

 

逆三角形に打たれた3つの点をみるだけで「顔」と認識するように

私たちの脳は、ランダムな事実の中にも「自分なりの物語」を見つけ出してしまう特質があるらしいです。

つまり、意識して語られる「物語」はさらに強力に私たちの心を奪うんですな。

 

高校野球を舞台にしての「白球の記憶」なんかがいい例です。試合試合の合間に流されるドキュメンタリー的な映像なんですけど、すっかり「美しい物語」に仕立て上げられてます。

たまたま見た私が涙しそうになったくらいです。

 

私はひねくれものですんで、「これは危険だ」「誰かの意図にはまって心を持っていかれている」という自覚をもてましたけど、そうじゃなかったらホンマ「夏の高校野球信仰」を「賛美」しちゃうでしょうね。

おまけに、無意識に「戦いのある人生」、「勝負こそ人生」、「根性と努力の人生」やらの物語がすすす~~っと脳に刷り込まれていっちゃいそうじゃないすか。

 

そんな気づきがあって、それをきっかけに私がつかもうとしている「真理」の実像が霧の向こうにうっすらみえてきたってわけです。

 

私が違和感を感じるのは「物語に足を掬われるような状況」においてなんですよね。

それに浸っているときには気づかないんですけど、一歩そこからはなれるとそこにとんでもない力が作用しているのが如実にわかるんです。

 

そして、足を掬(すく)う「力」に嫌悪感を感じるようになる。

 

 

3,エンターテインメントが観られない

 

映画もね、視聴するのって最近はドキュメンタリーばっかりなんです。

もちろん監督が意識している物語はあります。でも、創作ほど「傍若無人」ではない。たくさんの情景が切り捨てられずに残っていてそれがそれぞれに「自由な解釈を許されるもの」としてそこにある。

ハッピーエンドなのかバッドエンドなのかもわからない。

監督が切り取ったコラージュをただただ私たちは体験する感じで。

 

最近見た作品は、「BEING ERIKO」というドキュメンタリーですが、もう「あらすじ」の説明や「感想を述べる」行為が私には出来ない。

 

 

ああ。

 

うんうん。

 

そ~ね~。

 

そうか、そうなのね~。

 

 

それ以外、なにが言えましょうか。

 

他人様の人生について、何がいえましょうか。

恐れ多くて要約なんてできません。

どういう物語なのかも言えない。

 

そして、その状況が、とても「有難く」感じるんです。

何かが私の足を掬うということがないからです。

 

 

 

4,心を奪う物語は危険だ

 

連載少女まんがの次の展開が知りたくて、人生すべてを賭けていた(誇張ではなく)中学生時代を過ごした者として、今思うのは、「物語」ほど危険なものはない、ということです。

 

当時は物語がなければ生きてゆけない、という状況でもあったわけですがね。(日本で生まれて女性として生きてゆくには現実だけでは厳しすぎます。物語という「麻薬」が必要でした。)

 

売れ線の作品はたくさん人々の魂を文字通り奪っているわけです。

意図になんの悪意がなかったとしても、そこに生まれる吸引力があり、嬉々としてそれに自分を明け渡してしまう人々がいるわけです。

(私が、無茶を承知でまんが家を目指したように。)

 

今の私は、テレビでもユーチューブでもネットフリックスでも、魂を奪われそうな場所や人々からは距離をとりたいと思っています。

 

正気を保つために。

 

それ以前に、すでに発信されている各メディアの「アピール」が私には「圧」なんですよね。

 

強い「自分物語」を語る人とも距離を置きたいです。

ときどきいるじゃないですか、「逆境にめげずに這い上がってきた自分」「家族のために自分を犠牲にして頑張ってる自分」などなどの物語を、自ら語る方が。

 

それすら、私には「圧」なんですよ。

 

 

 

5,物語からは逃げられないのだとしたら

 

物語から「圧」を感じ、ランダムな事象からも意味をくみ取ってしまうのが人の性(さが)だとしたら、私はどうすればいいのか。

 

考えたら、私が描いてきた作品たちは、「主人公たちが自らを縛る物語から脱出する」という物語でした。

どこまでもその脱出劇は続くってことなのかもしれないですね。

 

日々、新しい物語を生きる。

そういうことができればいいのかもしれない。

 

最近はつくられた物語を視聴することはとんとなくなったわけですが、そのかわり、他人様の語る散文的な話を聞くのが快感なのを発見しました。オチもない教訓もない、ただただ語られるエピソード。

その「圧のなさ」。

 

ただただ流れる。

その自由たるや。

 

思い出すのは、杉浦日名子さんの「百物語」という作品です。

 

街宣のような物語からは逃げ出す私ですけど、杉浦さんが語るようなひっそりとした物語には耳をそばだてたい。

 

私たちに何かをさせようとしたり、私たちから何かを(魂を)奪ったりしない物語。それは商業主義とは相いれないところにあるものかもしれないですね。そう考えると「百物語」は奇跡なんだなあ。

 

 

私も何かを語るとしたら、そんな風に語りたいなあと思います。