彗星のごとく現れた大阪の大型新人の話題は
あ、という間に将棋界に広がりました。
評判に違わず、デビュー線で伊達六段
第二戦では当時A級棋士のスーパー四間飛車こと
小林健二八段を下し、大器の片鱗を見せつけます。
そして、四段昇段からわずか一カ月後
光速流、谷川浩司さんとの対局が訪れます。
といっても、公式戦ではなく
当時の将棋雑誌で企画されていた
「新四段 VS A級棋士角落ち戦」というものです。
谷川を倒す!と誓ってから五年目
角落ち戦とはいえ、早くも目標の棋士との対局です。
雑誌の寄稿文の中に
「この一局に負けると10年後、20年後までも
村山は角落ちで負けたと言われる
絶対勝たねばならない将棋です。」
と書いてます。
谷川(現九段)も対局後の寄稿文で
「A級棋士に勝つ男に、同じA級の私が
角を落とせるはずがない」
と書いている通り、結果は聖くんの圧勝。
その後も爆発的に勝ち続けて
12勝1敗という驚くべき成績で初年度を終えました
将棋界は4月から翌年の3月までが
1年度ですから、聖くんは
わずか4カ月足らずで12勝を
プロの世界であげたことになります。
翌昭和62年、聖くんはC級2組の順位戦に参加します。
この年度の C2 は53人という大所帯。
その中からわずか3名がC級1組に昇級できます。
その競争は熾烈を極めますが、特にこの48年度のC2には
あの「将棋界始まって以来の天才、羽生善治さん」をはじめ
佐藤康光、森下卓、井上慶太、(敬称略)などなど
後に、羽生さんを中心としてチャイルドブランドと言われ
将棋界の勢力地図をそっくり塗り替える俊英達が
萌芽の時を迎えていました。
その中で羽生さんと聖くんは当たり前のように
勝ち続けます。
当然、対局で上京する機会も増え 聖くんは
東京将棋会館の桂の間と呼ばれる
プロ棋士達が集まり、日夜熱心な検討を
繰り広げる控室でもデビューを果たします。
それは怪童丸という名にふさわしいものであったと
その場に居合わせた、将棋雑誌の編集者が
書いています。
「終盤は村山に聞け」という関西の伝説も
当然、伝わっています。
聖くんが部屋に入ったとたん「うおっ」という感じで
空気が揺れました。誰かが
「さっ丁度いいところです」ここに座ってと
盤側に招きましたが、聖くんは検討に
加わるそぶりも見せずに、部屋の隅に
崩れるように腰を下ろしました。
勝負は終盤の難解な、詰むや詰まざるや、という
局面に進み、待ってましたとばかり先輩棋士の一人が
「ね、どお 村山くん?」と声をかけます。
検討陣の視線がすべて聖くんに向けられます。
ものうげに身を起こし、顔だけ盤の方に向けた聖くんは
数秒盤面を見やると一言
「詰みます」 そしてつまらんものを見たと
言わんばかりに再びだるそうに身を沈めます。
「ほんと、どうやるの?」
「ねえ、村山君」
「詰みます」 顔も向けず言い放つ聖くん。
部屋には険悪な空気が満ちていきます。
「本当かなあ、どうやったら詰むのかなあ
教えてよ」
おどけ口調ですがマジで答えなかったら許さんぞ
と怒気がこもっています。
聖くんはここでも全員を敵にまわしてしまいました。
殺気立った雰囲気の中、聖くんは言い放ちます。
「どうやったら、詰まないんですか」
これを脇で聞いていた編集者は
心の中で「こりゃ本物だ!」と喝采を上げました。
こんな言動が数々の噂を呼び、やがて逸話となって
聖くんの存在は東京においても確実なものとなりました
人はいつのまにか、こう言うようになります。
「東の天才 羽生あれば
西に怪童 村山あり」と。
その年の地獄の C2 と言われた順位戦を聖くんは
わずか一敗しただけの第2位で勝ち上がります。
一位は全勝優勝を果たした羽生さんです
いよいよ、C級一組で
東の天才 対 西の怪童 の闘いが始まります。
しかし、それは高熱を押して挑んだものでした。
~以下次号・羽生VS村山~

