え~前回、村山さんの事は書くにふさわしい人に、などと申しまして
遠慮いたしましたが・・・やはり書いておきたいのですネ。
ただテレビで応援していただけの、いちファンにすぎませんが
そんな者にも、鮮烈な思い出を残して逝かれました。村山さんは。                        


「吹け~ば飛ぶよな将棋の駒に~ 賭けた命を笑わば笑え~」
なんて歌が昔ありましたが、本当に居たんだ。そんな人がと
この本が教えてくれました。
谷川さんの光速流はカッコよかった
羽生マジックは驚きの連続でした
そして村山さんの将棋は怖かった
私のようなヘボがみても恐ろしいくらい迫力がありました。
あの力強さは、まさに命がけの迫力だったのですね。

村山聖(さとし)さんは昭和44年の6月に広島で生まれました。
4歳までは一瞬もじっとしていない、やんちゃ坊主だったそうです。

少年時代
ところが、5歳の時に高熱が続き、腎ネフローゼを発病してしまいます。
機能障害をおこした腎臓は血液中に取り込むべき蛋白質を排尿という形で
対外に排出してしまいます。
血液中の蛋白濃度が薄れると、浸透圧のバランスが崩れ、
水分が各細胞へと流出します。
その結果、手足や顔が異様にむくみ出す。
最悪の場合、肺に水分が流れ込み、肺水腫。
呼吸困難に陥り死亡することも多い病気です。
村山さんは、一見太って見えるかもしれませんが
病気のためにむくんでいるのです。

細胞の基盤である蛋白質が不足するため、免疫細胞も減少し
抵抗力が低下します。そのため、ちょっとしたことで高熱を発します。
治療方法は安静にすること。
何もせず何も考えずにジーと布団に横たわっていなければなりません。
遊びざかりの子供には、もっとも困難な治療方法です。
一週間も寝ていると元気になって走り回り、すぐに発熱。
しばらく休んでは暴れて発熱。そんなことを繰り返し
とうとう一歩も動けなくなってしまいました。

長期入院を余儀なくされた聖少年。
ある日同室の女の子が亡くなります。6歳の子が常に死と隣り合わせの
環境で、自分自身にも、いつ死がおとずれるか分からないまま
ベットに横たわっている。それが聖少年のおかれた現実でした。
お父さんが少しでも気分が紛れればと教えたゲームの中に ひとつ、
聖少年が夢中になったものがありました。
それが「将棋」です。
市民病院の同室の女の子がいなくなったベットの上で
ネフローゼに冒され、一年の半分以上を寝て過ごさなければいけない少年は、
変化無限といわれる将棋の宇宙を飛ぶための翼をこの時、手に入れました。
村山聖さん 6歳の秋です

時、同じくして、遠く離れた東京で、やはり6歳の少年が将棋と出会い
夢中になります。食事中はおろか布団の中までも将棋の本を離しません。
「少年VS母・姉連合軍」で将棋を指し、母・姉側が不利になると
将棋盤をひっくりかえし、不利な側をもって指し続けたというのは、
今では有名な話です。
その少年の名を 「羽生善治」 といいます。
村山さんの生涯のライバルとなる羽生さんとの邂逅は
まだ先のはなしです。

村山さんと羽生さんだけではありません。
この年は全国にそのような少年たちが一斉に現れ、
繭として羽化するときを待ち続けます。
佐藤康光、森内俊之、郷田真隆、先崎学、などなど、
のちにチャイルドブランドや羽生世代と呼ばれ
将棋界に革命的ともいえる変革をもたらす彼らです。
自由に動きまわれる彼らと違い
聖少年は、ただひとり動けない体で、ベットの上で、
将棋の勉強に没頭します。

小学二年生の時に聖少年は療養所に移されます。
そこは、同じように重い病と闘っている子供たちばかりが暮らしています。
その施設には建物の片隅に慰霊塔が建っています。
子供たち全員がその存在する意味も知っていました。
おやつを分け合った友達が翌日には亡くなったりします。
そのたびに、子供たちは悲しみ、次は自分の番ではないかと怯えます。
閉鎖された空間と、すぐ側にある死という恐怖。
時として子供たちは動かない体で、そんな環境への怒りを
爆発させてしまいます。
それはある意味どうしようもないことかもしれません。

ただ将棋と出合った聖少年だけは少し違いました。
将棋が聖少年の内面で途方もなく深く広がり始めていました。
自由に体がうごかせないことからくる苛立ちや
友達の死という絶望感すらも自分自身の内に
抑え込むことができるようになっていました。
聖少年にとって将棋は大空を自由に駆け巡らせてくれる翼でした。
しかも、この翼は、多くの少年たちが抱くはかない夢と違い
「折れない翼」でした。

ん~やっぱり長くなってしまった・・・
え~い 続きます!









え~今回ブログの更新が、えらく間が空いてしまいましたですな
えらいすみませんです。何とか時間つくって続けてまいりますので、
見捨てんといてくださいまし。

以前からこちらで、私の将棋好きはお伝えしてまいりましたが
大﨑善生著「聖の青春」を今、映画にしているそうですね。

聖
主演の松山ケンイチさんは 故 村山九段を演じるため20キロ以上体重を
増やされているそうですが、いい映画を創ってほしいものです。
30歳以上の将棋ファンで村山聖さんを知らない者はいないでしょう

5歳で腎ネフローゼという難病にみまわれながらも勝負の世界に身を投じ
天才 羽生善治名人に、ただ一人勝ちきれる力を発揮し
わずか29歳で夭逝された方ですもんね
「聖の青春」は私も大好きな本ですが 村山さんの話は
ホントに多くのところで語られておりますし、また、語るにふさわしい方も
大勢いらしゃるので、今回は同じ大崎さんが書かれた本
「将棋の子」を紹介したいと思いますです。

将棋でプロ棋士になるためには、まず日本将棋連盟が運営する
プロ棋士養成機関の奨励会に入らなければなりません
これね、ただの将棋好きというだけではとても入会できません
日本中の天才少年たちが集まり、しのぎを削っております。
地方で大人たちが相手にならない、天才だ、将来は名人だ、と
いわれる子供たちがここではただの平凡な子になってしまいます。

小学生でアマでは最高段位五段の子供たちが、奨励会では6級の雑魚として
やっと入会し厳しい勝負の世界に放たれます。21歳までに初段
そして26歳までに四段(この四段から正式にプロ棋士としてみとめられます)
になれない者は退会とされます。
四段になるためには、当然ですが三段リーグというのがあり
三段位の者たちで半年間戦われ、上位二名だけが
晴れて四段昇格、プロ棋士になり対局料や給料を支給されますが
奨励会三段までは、何ももらえません。すべて自力で賄い精進していかねばなりません。

村山さんはこの奨励会をわずか2年11か月で駆け抜けます
これは あの羽生さんよりも短い年数であり
これだけで、いかに非凡であったかがわかりますね。
天才集団の中で、一年間にたった4名だけがプロと認められ、そこに勝ち上がれなかった者で
年齢制限に達してしまったものは退会とされます。
つまりほとんどの人がプロ棋士になれず去らねばなりません。

「将棋の子」はプロ棋士を夢見て志半ばで去っていった奨励会退会者の物語です。
著者の大崎さんはこの本を書かれるとき長年勤められた将棋連盟を退職されています。
自ら退路を断ち、作家として彼らの人生を追いかけていきます。
プロローグに自らの思いを語っておられます。

「栄光のなかにある多くの棋士たちを見てきたのと同時に
それと正反対の立場で、ただの一度も注目を浴びることもなく
将棋界を去っていった大勢の若者たちも見てきた。
桜が散り、やがて花びらが歩道を埋め尽くし、いつの間にかその花びらさえも
どこかに消えて行ってしまうように、彼らはもう将棋界にはいない。
彼らの夢はどうしたのだろうか。挫折した夢とうまく折り合って、
いきいきと生きているのだろうか。
私の胸には彼らの残した夢の破片が突き刺さっている。
   (中略)
あるいは自分自身も彼らの残していった無数の夢の破片とともに
生きているのかもしれない
その痛みが胸に蘇るたびに私は抑えることのできない衝動に駆られた。
どうしても彼らのことを書かねばならない。
歩道の上に散り、いつの間にか跡形もなく消えてしまった一枚一枚の花びらたちのことを。

ここだけ紹介すると、つらく切ない話と思われそうですが
この本はそれだけの内容には終わっておりません。
成田さんという方を中心に幾人かの、退会後の人生が語られていきます。
奨励会は退会時、その者の健闘を称え将来の成功を祈って
一組の彫り駒が与えられます。
大崎さんも20年以上勤めた将棋連盟を退職されるとき、この駒を
連盟の関口さんという方から贈られます。
関口さんも奨励会退会者で連盟職員として30年近く勤めている方です。
夢破れた場所に踏みとどまり、職員として働くということは
相当な屈辱と苦痛を伴うと思いますが、そんなことは
おくびにも出さずに、関口さんは飄々と歳月を重ね生きておられます。

「関口の優しさが、もし奨励会での悩みやそこを退会した苦しみに
 対抗するようにして生まれてきたものならば
 私は挫折を否定する気持ちにはなれない」と語られます
主人公の成田さんは、苦境に立たされながらも、数十年にわたり
この駒だけは、肌身離さず持ち続けていきます。

大崎さんは将棋の子をこう結ばれます
「奨励会が、競争と厳しさだけを教えるだけではないことを
 この駒は雄弁に語りかけてくるように思えた
 その極限状況のなかから、この美しい駒のようにやがて抽出されていくもの
 きっと、勇気と優しさを教えてくれる場所なのだろうと」

以前、羽生名人が何かのインタビューで
「将棋というものは、こっちが指した後には相手が指す
 だから決して思い通りにはならないものです」
人生も同じですよね、思い通りの人生を歩んでいる人なんてどこにもいません。
必ず何らかの障害がたちはだかり修正を余儀なくされます。
同じ苦境に立たされても、承知のことと、時間を友として進んでいく。
そんなことを教えてくれた一冊です。









2016年となりましたですね いつもこちらに年賀状を載せてきましたが
今年は賀状を作りませんでした
理由はいくつかございますが一番は愛猫「さくら」の死が大きかったですね
年賀状もずっと さくら を絡めてつくっておりましたので
今だに猫の絵が描けない状態が続いてしまっているので
描きようがなかった のであります。

それに年末、年始 おふくろ が動けない、ろれつもまわらないと
いった状態になってしまいバタバタバタとしておりました
昨日、病院の精密検査で認知症でもなく、脳動脈瘤も出血していない
との診断で 一安心、今はまた おふくろも ゴソゴソと家の動けるように
なりました。
88歳のおふくろが動けない状態の時に、幻覚と話をしていたので
いよいよ来たか と覚悟を決めたのですが
服用している薬を調べたら、無茶苦茶飲んでしまったのがわかり
薬を全て私が管理して 用法、用量を守って与えるようにしたら
5日間でかなり回復してくれました。

高齢者で気をつけなければいけないのが転倒と薬の服用、
当人だけでなく私も、肝に銘じなければと思った次第であります。
まぁ そのこと以外にもいくつかあって新年のご挨拶を遠慮させて
いただいたのでございます。
かといって別段落ち込んでいる とかではありませんですよ。

昨年秋から休業していた治療院が再開してくれて
そちらに通えるようになったので痛めている、首、肩、肘、背中も
快復に向かっております。
よおぉし、これで また原稿が描けるぞ!
待っとれ講談社!なんて思っておりますです。
まぁ誰も待ってないの承知でそう思うのですから
おめでたいオヤジですな

漫画界の斜陽ぶりは、今や垂直落下とでも言いたくなるほど
ひどい状態で、NHKによりますと 漫画雑誌の総発行部数は
以前の4割にみたない とのことでありました
早い話が少年ジャンプとマガジンだけが
何とか黒字をキープしているだけで、後はどの雑誌が
すぐ廃刊になってもおかしくない ということですね

今のところ、雑誌という媒体でしかチャントした「表現力」を持たない
漫画は、デジタル社会に置いていかれております。
スマホなんぞチマチマしたもんで見れる大きさじゃないですよ
チャントした、プロの漫画はね!
雑誌とコミックス 本という形態でしか
作家の込めた「思い」は伝わってきません!

私なんぞ完全なアナログオヤジでありますし、時代がどう変わろうとも
やることは、ひとつ 原稿を描く それだけであります
デジタルでしか発表出来なくなれば 取り込めばいい
それだけのことじゃないか ぐらいにしか思っておりませんですよ
あまり出来の良くない私のアナログ頭脳であれこれ考えても
デジタル社会での道、など見えませんからね
見えないなら、それを武器にする それだけのことだ
なんて 思っております

何の本に載っていた説話か忘れましたが
「砂漠では、らくだは住めるのに何故キリンは住めないか」
というのがありました
キリンは背が高く 周りを全て見渡せるので
「ああっ 砂しかない・・・」と絶望してしてしまうが
らくだ は目の前しか見えないので
「ここを乗り越えれば、きっとオアシスがある」
と信じて前に進むことが出来る
というものでした
今の私の状況は 中島みゆきさんの「宙船」のように
闇夜に傷んだ船を漕ぎ出すようなものですが
らくだ のようにオアシスを信じて進んでいきますですよ
最後に もう一度
「待ってろ!講談社!凄いの送ってやる!」