今日、出かける前にとても興味深い記事がスマホにアップされていたので、PCで検索してリンクすることにしました。

当時、耳にしていてもきちんと読んだことは無かったのですが、ガス室によるユダヤ人絶滅が本当に存在したのかどうか・・・

 

 

 

 

 

文中に書かれていました。

例えば、「ガス室によるユダヤ人絶滅」に異論を唱えた事実上、最初の歴史家は、ポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)というフランスの歴史家です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑のブログの中で書かれていること↓

 

拷問で自白調書を得るなど、法的にも人道的にも許されないことは言うまでもありません。たとえ相手が何者であろうとも、です。しかし、私がここで皆さんに考えて頂きたいことは、現にそのようなことが行われた裁判で「認定」された事柄を、検証もせず、「事実」として鵜呑みにしてよいのか、という問題なのです。言い換えれば、拷問によって書かれた「歴史」を私たちは検証もせずに受け入れるべきか、という問いを、皆さん一人一人に、私は考えて頂きたいのです。何故なら、それは、私たちの自由に関わる問題だからです。

これは、ナチスや第二次世界大戦に関する道徳的議論とは全く別の次元の問題であり、もし、私のこの問いかけを「ナチスの弁護」などと呼ぶ方がいたとしたら、その方こそは、その「ナチス」に最も近い方ではないかと、私は思います。

 象徴的な言い方をしますが、拷問によって書かれた歴史を信じる事を強制され、それに異をはさむことが許されない社会が、民主主義社会であるわけがありません。私は、そのような社会に生きたいとは思わないのです。そんな社会こそは「ネオナチ」の社会だと思いますし、そんな歴史を信じろと言う人々が、自由を愛する人々だとも、信じられません。

  拷問によって書かれた「自白」だけでなく、交差訊問も受けずに語られた「証言」や後には、「証言」の主自身が撤回した「証言」までをそのまま鵜呑みにし、「歴史」を語るということは、事実という神聖なものに対する冒涜であると私は思います。そして、事実が尊重されないところに、自由や民主主義が存在するわけがないと、私は思うのです。

 

これって、自民党がやりたい緊急事態条項が通っちゃったら・・・

 

今でさえ、証言の捏造やら隠蔽やらやりたい放題なのにね。

 

 

 

 

続きが西岡氏のブログに書かれています↓

 

これまでのお話で私は、ナチスがユダヤ人を迫害したこと自体は明白だが、言われているような「ユダヤ人絶滅計画」にも「ガス室大量殺人」にも物証と言えるようなものは存在しないこと、そして、特に「ガス室大量殺人」については、元被収容者たちの証言には整合性が欠如しており、かつ、十分に検証されていなかったことなどをお話ししてきました。


 この本における私の目的は、「はじめに」で述べた通り、「ユダヤ人絶滅計画」や「ガス室」の実在を最終的に否定することではなく、それらに疑問を投じることにそぎません。疑問を投じた後は、「ユダヤ人絶滅計画」や「ガス室」があったという人々による説明を待つばかりですが、「ホロコースト」の「定説」には、まだまだ驚くほどたくさん、不合理が含まれているのです。ですから、現状では、私個人は、こうした彼らの「教義」を信じることはできません。
アウシュウィッツ「ガス室」の真実―本当の悲劇は何だったのか?
最も決定的なことは、「ガス室大量殺人」に関する「定説」側の主張に、科学的に不合理な部分が多々含まれているということです。ここで言う不合理というのは、必ずしも不可能という意味ではありません。しかし、あまりにも困難である、或いは馬鹿げている、という意味だとご理解頂きたいと思います。そうした幾多の科学的不合理に「定説」を擁護する人たちは一体、どのような説明をするのでしょうか?
 
 

 

 

 

対するnote↓