(熱帯果樹アセロラ)



今から546年前の、与那国島の話です。


1477年2月、貢納品(みかん)を積んで済州島を出発した船が大風で漂流、沈没。


3人が与那国島の漁民に助けられ、約半年を与那国島で過ごしました。


その時の記録が、『朝鮮王朝実録』(李朝実録)に収められており、与那国島の人々の様子が文字で記録された初の文献となっています。(この頃の与那国島は、まだ琉球王国の支配下にあらず)


漂流民は、その後、帰国に向け、八重山・宮古の島々を経由(滞在)して、首里王府に送られ、歓待を受けました。


王府は彼らを福岡の船主に託し、薩摩や対馬を経て、済州島に送り届けています。


その際、王府は、土産品なども持たせ(外交的要素を付加)、朝鮮王からも返礼品が届きました。






(「首里城 時代の地図③」沖縄タイムス2020-4-1より)



漂流民の話をもとにした記録によれば、島の人口は100人ほど。


女性は青い玉を耳から下げ(ピアス)、皆、髪長く、苧麻(ちょま)を藍染した青いスカートを履いている。


男女とも裸足。酋長はいない。


食事は、蓮の葉に似た葉(ユウナの葉)にご飯を載せて食べ、器は、木をくり抜いたものなどを使用。


ユウナの葉



島には、牛、鶏、猫がいて(犬はいない)、豚は記録に無し。与那国馬も、まだいない。


牛や鶏は、死んだら埋葬。


漂流民が、牛や鶏の肉は食べられると教えても、まったく取りあわず。


(漂流民の記録によれば、与那国島以外の島では、牛の肉は食され、鶏肉はやはり食べられておらず。)


(アセロラの花)



この度、この漂流民来訪について与那国島の伝承を読むことができ、その純朴な島の情けに、涙がこぼれました。


島の大切な記憶を語りつぐ役目を負ったのは、島の一人の女性。


4歳頃から、この漂流民の話を聞かされて育ち、小学生の頃には、文字に書いて残して欲しいと言われ、伝承のすべてが彼女に託されたのです。


研究者・安渓遊地(あんけい・ゆうじ)氏に、この話を語る近年まで、彼女は漂流民が無事に故郷に帰り、その記録が文字になっていることも知らなかったのです。


安渓氏によれば、『李朝実録』に記載された内容と、島の伝承はある程度、合致。


ことばの通じない3人の朝鮮漂流民と与那国島民は、とにかく親しく交わりました。


漂流民のことは、どこから来たか分からない人、という意味の島ことばで、"フガヌトゥ"呼んでいたそうです。


以下の色文字は、彼女からの聞き取りなどをまとめた安渓遊地氏の下記ネット資料からの引用・抜粋・要約です。



フガヌトゥが来る前、猫と鶏が、東に西に走り回るということがあり、ただごとでないことが起こるのでは、という予兆があった。



救助されたフガヌトゥは疲れきっていた。


体質的に島のモノを食べさせても害にならないか、確かめる必要があったので、ヨモギの葉を揉んで匂いを嗅がせたら、表情が和らいだので、大丈夫だと思った。


野蒜(のびる)を潰したものと、米の飯と、干した魚などをあげた。のびる、には清めの意味もあるという。


島には、"村の親(むらぬウヤ)"という役目の人がおり、この時は歳をとった女性がその役だった。


"村の親"は、島で一番、霊力の強い女性に相談し、受け入れが進められた。


フガヌトゥは、ことばは通じなかったが、こどもたちと歌を歌ったり、貝を積み上げて遊んだりした。


島の人たちは、フガヌトゥのことをいつも気にかけ、作った食べ物をあげたりした。


フガヌトゥもまた自分たちで作った食べ物をくれた。海のものと山のものを合わせた料理があって、島の人たちは、フガヌトゥの賢さに感心した。


... この頃には、フガヌトゥに山に入ることを教え、帰りには必ず山に感謝の声かけをすることや、また魚のいる場所などを教えている。


島では、土鍋を使っていた。よく割れると文句があったので、フガヌトゥにたくさん作ってあげた。


(ヤコウボク=夜香木)



フガヌトゥは、毎晩のようにその日にあったこと、見た魚や植物の絵を地面に描いて、絵の横に模様(文字?)を書き、説明してくれたが、島の人にはわからずじまいだった。


軒に、アカメガシワの葉を下げて、毎日1枚づつ増やしていたのは、たぶん日を数えていたのだと思う。


自分たちが島に着いたときの月の形と今の月の形をよく地面に描いていたのも、同じだろう。


フガヌトゥは、何か手伝うことがないか、と申し出たり、稲刈りの手伝いも上手だった。
 

稲刈り前のタブー(音を立てないという厳しい謹慎)も理解し、従ってくれた。


いろいろと物知りなフガヌトゥのところに青年たちが通ううち、兄弟の仲(契り)を結んだ。


"村の親"の立ち会いで、月光の力を受けながらの約束で、ウトントゥ(月の光の仲)という。


フガヌトゥは、溺死した仲間や故郷を思って、大声で泣くことがあったが、"村の親"がなだめてあげた。


娘たちの中には、フガヌトゥを好きになった人もいたが、フガヌトゥの、故郷に帰るという強い意志が最初からわかっていたので、引き留めることはしなかった。


島の人が、稲刈りの時に吹いている風をさして、「いま吹いている風の、"弟の風"が吹いたら、それに乗せて送ってあげる」と言った。

...."弟の風"とは、とても詩的な表現!


島に南風が吹き、フガヌトゥは、その風に乗って、島を去った。


フガヌトゥを送り出す時、「たとえ身体は故郷に辿りつけなくとも、魂だけは故郷に届くように」と、女たちは祈った。


月日が経って、フガヌトゥと"月光の仲"の契りを結んだ若者たちが、フガヌトゥが無事に故郷に着いたか確かめるため船を出したい、と大騒ぎになったが、"村の親"に、次のように諭された。


フガヌトゥは、毎朝、朝陽を拝み、夜の月の光に喜んでいたでしょう。私たちと同じ感情を持っている人たちだから、故郷に着いたら必ず知らせがあるはずだから、待ちなさい、と。


フガヌトゥが島を離れてしばらくしてから、フガヌトゥを好きになった娘たちが、歌ったものだと伝えられている歌がある。


田植えの時に、苗代とお別れする苗さんをなぐさめるときにも歌って聞かせた歌でもあった。


....苗代と別れる苗をなぐさめるとは、なんて美しく優しい心!


この部分を読んで、瞬時に浮かんだのは、宮沢賢治の童話「いちょうの実」。


いちょうの実たちは、いよいよ旅立ちの日を迎え、次の大風が来たら、一斉に母親(木)と別れなければならず、不安でいっぱい。そこに風が吹きます。「さよなら、おっかさん」「さよなら、おっかさん」と、こどもたち(実)は、枝から飛び降りるのです。


島の人たちは、それからもフガヌトゥが無事に故郷に帰れたか、ずっと気にしてきた。


1966年頃、旧正月のついでに、フガヌトゥの正月をやろうということになった。


山の神、海の神、里の神のそれぞれ3つの方向に祈りを捧げた。


このときのそれぞれの神様への祈りのことばにも、胸を打たれました。


古俗を生きていたように感じられる、当時の与那国島の人々にとって、漂流民の来訪と交流の日々は、どんなに大切な出来事だったことか。


漂流民の方はといえば、そのあと2年ほどの月日をあちこち移動させられながら、故郷への思いを募らせていたことでしょう。


与那国の人たちが、ずっとこれほどまでに、自分たちの身を案じていたとは思いもよらなかったはず。


ただ漂流民の記録に、与那国島のことが一番詳しく記されていたことを知り、少しなぐさめられるものがありました。


古き時代の、島の人々の心の清らかさに、心が洗われた体験でした。

✳️参考資料「朝鮮人の漂流記に現れた15世紀末の南島」伊波普猷『をなり神の島』所収 1942年刊)



(ショウロウクサギ=鐘楼臭木)




マリンは、お陰様で、すっかり元気になり、3歳の夏を過ごしています。


毎日、マリンに、ウルウルして、有り難う!と話しかけていますが、

エッ? ナニ? と迷惑そうな顔をされるときもあります😆



私、いま、コロナに罹患し、ビニール手袋をしてマリンを撫でているんです。(コロナに感染した猫のニュース有り)


マリンは、何でかな?という顔をしていましたが、だんだん慣れてきたみたいです😆


あと数日、隔離生活です。

まだ味覚異常(苦味あり)と嗅覚異常あり。持病持ちの家族がいるので、神経を使っています。


やはりコロナは感染力が強い。皆さまも、お気をつけ下さい。ご訪問は、ゆっくりになります。ご了承下さいませ。

(空き缶とマリン😆)


⭐️写真は、iPhoneカメラ=ポートレート(被写体深度を調整)